2007年7月から2008年9月まで1年2か月をかけてめぐった甲斐百八霊場。たくさんのお寺さに頭を垂れたわりにはまったく悟りのない知足とその仲間たちでした。これは知足ブログ「日日是好日」からの抜粋です。続きをご覧いただく場合は、NEWではなくOLDのボタンを押してください。

甲斐霊場めぐり

テキヤ物語」で主役を張っている元テキヤのヒデさんご夫妻から、若い頃に重ねた悪行を少しでも清めるために(笑)、霊場めぐりというのか、札所めぐりをしませんかというお誘いを受けました。三途の川を渡るときに、あまり水を濁らすと後から来る人に迷惑だろうとおっしゃいまして。「テキヤ物語」はいわゆるモデル小説っぽい感じですが、書かれていることがすべて事実ってわけじゃありませんので、念のため。
 
私は別に悪行を重ねたつもりはありませんが(^_^;)、もし、後になっちゃったら汚れ水を渡らなきゃならなくなるし、ここはひとつ、お付き合いしましょうってんで、甲斐百八箇所霊場めぐりを敢行することにしました。簡単にいえば、要するに運転手。煩悩の数と一緒だし、ちょうどよいのではないかと。いっぺんには無理なので、ちょっとずつね。
 
霊場はどこでもよかったんだけど(^_^;)、都内は移動に混雑が見込まれるところも多いし、今年は風林火山だろうというので、あっさり山梨県に決定! いいかげんなもんです。ついでに山本勘助の墓参りでもしてきますか<いっぱいあるらしい
 
というわけで、第一番「善光寺」に行ってきました。一般には甲斐善光寺といわれています。武田信玄が長野の善光寺からご本尊を奪ってきて祀り、また奪い返されちゃって、いまは別の阿弥陀如来がご本尊とか。善光寺というのはもともと土着信仰と関係が深いらしく、調べてもいないのでわからないのですが(無責任!)、けっこう全国に善光寺という名前のお寺がたくさんあるようなんですよね。
  
甲府は、ちょっと高台のほうに行くと、本当に街全体が見下ろせます。そして山を背負い、三方も山。盆地なんだなぁとつくづく感じられます。今日はめちゃめちゃ蒸し暑かったですが、梅雨の晴れ間で、富士山もくっきり見えました。この高みから富士を目前に拝し、集落全体を見下ろすと、武田信玄ならずとも「要塞堅固っ!」って感じがします。
 


栖雲寺(甲斐霊場第20番)

栖雲寺にやってきたときは、もうすぐ夕暮れという微妙な時間。雲の彼方に富士山がうっすら輪郭を現していました。この地からは、富士山のいろいろな表情を見ることができます。
 
天目山栖雲寺は14世紀初頭に中国の天目山で仏教を学んだ業海本浄が1348(貞和4)年に開山したというお寺です。帰国して、この地が中国の天目山に似ているためにここ栖雲寺を開いたのだそうです。かつては武田家の菩提寺として繁栄し、境内の裏にあるお墓所には武田家10代信満の墓もあります。
   
東京から移り住んだという老婦人がちょうどお寺の雨戸を閉めていました。この辺のお寺さんは全部回ったとのこと、なぜ、このお寺に住んでいらっしゃるかは不明。ちょっと前まで無住だったという話を聞いたことがあるので、管理を任されていらっしゃるのかも。本当にお寺が好きで、話がつきないという感じでした。裏のお墓は文化財になったので屋根をつけたのだそうです。
 
境内の片隅にある鐘楼に下がる鐘は甲斐五鐘の一つで、1359(延文4)年に武田信武の菩題をとむらうため、長男の信成が寄進したと伝えられています。 ちなみにここは「蕎麦切発祥の地」でもあるそうです。
 
裏山には急な斜面には巨大な石が重なりあった石庭があります。いや、石庭とはきいていましたが、これが「庭」とは思いませなんだ。業海が水によって土砂を洗い流して築造したといいますが、自然そのまま岩山ですね、これは。広さは2万平方メートルにも及び、県指定の名勝もなっています。岩の間には地蔵や文殊菩薩の磨崖仏があるそうですが、庭園散策というより、ちょっとしたハイキングの覚悟が必要。夕暮れ時で足元が危ないのと体力の限界を感じて、下から眺めるにとどめました(^_^;) 昔は修行僧たちがこの山に登って修行したそうです。
 
甲州は本当にお寺の多いところですね。信心深いというより、鎌倉時代から非常に文化度が高かったのではないかということをうかがわせます。かつては学問とか識字率というのは信仰としっかり結びついていたと思うし。そういえば、かつては寺子屋をやっていたというお寺さんも多いようです。甲斐の霊場はかつては四国と同じように88だったそうです。1978(昭和53)年に霊場めぐりを設定しようという話が出たときに、鎌倉時代からの古いお寺さんだけでも相当数あって絞るに絞れないこともあり、煩悩の数と一緒の108に決めたのだ、と老婦人からうかがいました。
  
帰り道、「→八王子」という看板に惑わされて、峠越えを敢行することにしました。夕暮れ時の峠ドライブ……、峠ドライブ……、峠ドライブ……、途中に大菩薩湖なるものを発見。知らなかった、こんなところに湖があるなんて。行けども行けども峠道で日はとっぷりと暮れ始めてきました。うわっ、なんだ! と、道路に飛び出してきたものを見ると小鹿が1頭。また行くと、また1頭。頂上に到達するまえに4頭の鹿に遭遇しました。「神様のお使いというし、なにかいいことあるんじゃないの」と暢気に構えていましたが、頂上に到達すると下りは林道で、未舗装。ガードレールもないみたいだし、自分のヘッドライトだけを頼りに降りるのは……ちょっと危険かも。というわけで、もと来た道を引き返して高速道路で帰還という顛末になりました(-_-;)
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保福寺(甲斐霊場第21番)

甲斐霊場めぐりの21番は、108の中でひとつだけポツンと離れて上野原市にある安寧山保福寺です。上野原市は山梨県で最も東部に位置する街、もっとも東京に近いところにあります。お寺の入り口、山門脇には「萬霊等」と「月見寺」と書かれた大きな石碑があります。萬霊等は高さが3メートルほどあり、県内でも有数の大きさを誇るそうです。

  

山門には「安寧山」の扁額が掲げられていますが、この書は承天禅師の手によるもの。承天禅師は高輪泉岳寺の僧で、討ち入り後の赤穂四十七士を山内に招き入れたことで有名です。そして、こう言っちゃーなんですが、けっこうどこでも見かける芭蕉の句碑もしっかり並んでいます(笑)
 
「月見寺」という石碑があるのは、保福寺は別名、月見寺と呼ばれているからです。甲州を舞台にした中里介山の長編「大菩薩峠」の中で「甲州上野原の報(保)福寺、これを月見寺と唱えるのは、月を見る趣が変わっているからです……」と書かれたことに由来するそうな。不勉強で、この小説を読んだことはありませんが(たぶん、一生、読みそうもない(^_^;)
 
保福寺は1582(天正10)年に武田信玄の重臣で、上野原城主であった加藤景忠が開いた曹洞宗の寺ですが、このお寺が創建された年に武田氏は滅亡し、加藤景忠もそれから1カ月後には武州多摩で討ち死にしたとか。さぞや、無念だったでしょうね。広々とした境内には三途の川に模された川が流れてますが、加藤景忠さんもここを渡ったのでしょうか。本堂の背後には広大な墓苑が開かれていて、お墓所だけで1万坪あるそうです。住職さんが管理やお掃除が大変なんだとおっしゃってました。お墓参りも、お参りというよりは山登り? 
  

創建は16世紀ですが、1751(宝歴元)年に火災で本堂や庫裏などを焼失。ご本尊だけは住職や檀家集の手で救い出され、1756(宝歴5)年に再建されたそうです。それでも350年前。そこで、来春には取り壊して建て直し、新しい本堂が完成するのは2009年の予定だとか。「この建物を見られるのは、いまが最後ですよ」と、住職さん。住職さんやお寺の方が気軽に案内してくださいます。

  
「えーっ、もったいない」と思わず言ってしまったのですが、建物の老朽化が激しく、ちょっとした地震でも崩壊しかねない状態なのだそうです。取り壊しに関しても、そうとう慎重に、計画的にやらないといつ屋根が崩落するか……と。そういえば、屋根の重さに対して柱がやや細いように感じられました。本堂の前に、新しく建てられる本堂にはミャンマーチークを使いますと書いてありました。

  

樹齢200年の天然のミャンマーチークは、伐採してからも200年間は風化しないといわれています。チークは、ミャンマー、タイ、インド、カンボジア、 ラオス、ベトナムなど、東南アジア各国に生育していてますが、その中でもミャンマーが質、量ともに世界一といわれています。そこで、なるべく長く保存することが必要とされる仏教寺院などではミャンマーチークが多く使われているそうです。熱帯で雨が多いミャンマーで育ったチークは、高温多湿に強いので、梅雨あり猛暑ありの日本の気候には、ミャンマーチークがぴったりなのだとか。お寺の保存、管理もなかなか大変なんですね。

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花井寺(甲斐霊場第22番)
大善寺(甲斐霊場第18番)