ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2007/10/19  (金) 

猿橋

花井寺へ行く途中に、猿橋を通過します。「猿橋」と聞けば「バス停付近」と無意識に続けてしまうほど中央高速の渋滞の名所。ラジオの交通ニュースではお馴染みの地点だというほどの知識しかありませんでした。それも、単なる地名でしかなく、そこに「橋」があるという認識すらなかったといってもいいでしょう。高速道路上には「橋」はありませんしねぇ。保福寺の住職さんが、「そばを通るんだから、ぜひ見ていきなさい」とおっしゃったもんだから、ちょっと寄ってみることにしました。確かに甲州街道の曲がり角には「日本三奇矯」という看板が出ています。しかし、行ってみれば単に木の橋がかかっているだけ。奇矯? これが? と思いながら、橋の上に立ってみると、眼下はすごい渓谷。ちょっと足がすくむ感じです。
 
この風景が「奇」なのか、と思いました。確かに怖いくらい迫力があります。でも、「三大」というほどなのかなぁ。引き返しかかると階段のところに「展望台こっち」の標示があります。降りる? 展望台なのに? と思いながらも階段を降りかかって、振り返ると、……これが奇矯だったのだ! 橋桁に屋根がいっぱいついているとでもいうのでしょうか。本当に奇観です。ご存知の方は何をいまさらとおっしゃるでしょうけど、はじめて見ると口があんぐりといった感じです。
 
帰ってきてから、ちょっと調べてみました。長さ31メートル、幅3.3メートル、谷からの高さが31メートルあり、橋脚がたてられないために両岸から張り出した四層のはね木によって橋を支えているのだそうです。急流や渓谷などでの架橋には橋脚なしで橋を渡す技術が必要で、一般には吊り橋ということになるのですが、江戸時代の日本にはもう一つ、刎橋という形式があったそうです。刎橋は、刎木という太い丸太を斜めに石垣の中に埋め込み、残りを川に突き出させてその上に橋桁を乗せ、橋脚なしで橋を架ける技術。江戸人って、ほんとに創造的なアイデアに富んでいたんですね。
  
江戸時代にはこのような構造の橋はけっこうあったらしいのですが、当時から猿橋がもっとも有名で、日本三奇橋の一つとされていたそうです。安藤広重の「甲陽猿橋之図」や十返舎一九の「諸国道中金之草鞋」などで紹介されているのだとか。ちなみに「三大」のあと二つは「岩国の錦帯橋」「木曽の棧」でした。猿橋は景観の美しさとともに1932(昭和7)年に国の名勝に指定されています。でも、この猿橋、実は1851年(嘉永4)年製の橋の復元。H鋼を使い、岸の基盤をコンクリートで固めて、1984(昭和59)年に架け替えられたそうです。
 
渓谷の奥に見えるのは東京電力の駒橋発電所で利用した水を下流にある上野原八ツ沢地区の発電所で有効利用するために架けられた水路で、こちらも1997(平成9)年に文化財に登録されています。



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花井寺(甲斐霊場22番)
お江戸日本橋