ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2007/10/10  (水) 

武蔵野の龍源寺

西光寺に行った勢いで、近藤勇のお墓参りにも行ってみました。曹洞宗大沢山龍源寺、近藤勇の生家、宮川家の菩提寺です。山門の左手に近藤勇の胸像と天然理心流の碑があります。ここは腕組みしてないのよね(^_^;)
  
この碑は1988年(昭和63)年に三鷹市剣道連盟が建立したものだそうですが、天然理心流の伝統を引き継いでいる道場は、三鷹と調布の双方にあるというようなことを聞いたことがあります。三鷹市剣道連盟では、近藤勇の慰霊剣道大会を開催しているとか。龍源寺は三鷹市にあり、歩いて1分ぐらいのところにある近藤勇の生家後は調布市にあるのではないかしら? ここは境界線みたいです。
  
天然理心流の木刀と演武のフィルムが日本武道館に保存されているそうですが、これを見る機会は一般人にはないのでしょうか。見てみたい気もします。
 
お墓は、本堂の裏手にあります。ここには板橋で首を切られた胴体部分だけが葬られているということですが、それも真偽のほどは明らかではないととか? そういえば、三条河原にさらされ、その後誰かがもちさったといわれる首級が見つかったという話もどこかで聞いたか読んだかした覚えがあるのですが、これは実証されたのかしら? 調べればわかることなのかもしれないけど……(-_-;)
 娘婿や孫?と並んで

 
龍源寺のすぐそばに近藤勇の生家跡というのがあります。跡といっても、何も残っていなくて、嘘か誠か産湯を使った井戸というのが残っているだけですが。説明板に生家の写真がありました。調布市郷土博物館に、生家の模型があるそうです。となりに小さな鳥居があり、「近藤神社」というそうです。ちょっとわびしい風情かな。昭和に入って有志が建てたものだそうです。近藤勇=新選組が市民権?を得るにはやはり長い年月が必要だったのでしょうね。なんてったって、賊軍の将といわれて斬首された人だし。
 

人見街道をはさんだ向かい側には天然理心流道場「撥雲館」というのが残っていました。この道場は近藤勇の娘婿の勇五郎が作ったものらしいです。建物のある敷地の玄関に「近藤」の表札がありましたが、子孫ですかね?

  
 ものはついでと、調布市郷土博物館へ足を運んでみました。入り口を入ると、あっちゃ〜、やっぱり腕組みをしている近藤勇像がお出迎え。確かに、模型はありました。けど、この博物館、やる気あるんでしょうかね? すごくわかりにくいところにあり、入り口を示す看板も目立たないし、やっと気がついてそこを曲がっても、まだ道は枝分かれ。土地勘のない人間は来るな!って言ってるような感じです(笑) 
  
調布市の郷土の歴史がこじんまり展示してあるだけなので、まあ、相当の酔狂か、小学生の学習ぐらいしか人が訪れないのかもしれません。ここの展示を見ると、へぇ〜、調布ってけっこう昔から開けてたのねって思うので、もっとやる気出せばいいのにね(笑)



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2007/10/09  (火) 

2007セリーグ最終戦

今日は今シーズンのセリーグ最終戦。よっぽどコアなファンじゃないと関心はないでしょうが、横浜スタジアムでヤクルトスワローズVS横浜ベイスターズ24回戦が行われました。古田選手がホントにホントの最後のユニフォーム姿を見せた日でもありました。

 
お空の下で野球をやっている関係もあって、横浜スタジアムの最終戦は相手がスワローズであったり、カープであったりすることが多いですね。そして、なぜか全日程の最終日であることも多いような気がします。今年もごたぶんにもれず(笑) 雨流れがさらに雨で流れた再々試合になったカードです。しかも、最終戦がナイトゲームというのも珍しいのではないかと。
 

毎年、最終戦ともなれば、1年間熱心に応援してきたファンたちは、万障繰り合わせて参加するという感じでけっこう人が集まります。ただし、もう秋雨前線って季節ですから、延びて延びて延びまくったりするので、予定が入っちゃって参加できない人もでてきます(-_-;) 去年、私も参加できずだったので、今年はホントに万障繰り合わせて……でもないか(笑)

  
ホーム側はそんなわけで毎年けっこう人が集まりますが、今年は古田選手&監督の最後の試合ということがあって、レフトスタンドも満席。内野席もかなりしっかり入ってました。このカードにしては、トップシーズンより多いくらいかも(^_^;) 7回の応援タイムのときにはバックスクリーンに古田監督が大きく映し出され、スワローズファンの応援ボードもいっぱい映されていました。

  
期待に応えて、「代打オレ」、やってくれました。打席では、360度古田コールで、ライトスタンドも「かっとばせ〜、古田!」です。ピッチャー吉見はちょっとお気の毒(笑) ホントにかっ飛ばされちゃったし(^_^;) ネット裏は、最後の写真を撮ろうとする人たちがどっと集まり、席に座っている人から「見えなーい! 座れ〜!」と怒られてました。と、他人事のように言いながら、私も写真を撮りに行きました(^_^;) 座席より前にはでなかったので、怒られなかったけど。新庄のときにそれと知らずに走っていって怒られたので、学習してました〜(笑)

 
試合も最後は盛り上がり、最後に大矢監督から古田監督に花束。満場の拍手でした。ベイスターズ的には負けて、5割で終了することはできなかったけど、古田監督の最後の試合だから、花をもたせてあげてよかったと。負け惜しみ?(笑)

 
最後は監督のシーズン終了のご挨拶と、選手とファンのふれあいで終了するのですが、選手が引き上げてからも名残を惜しむようにファン同士のエールの交換が続けられていました。スワローズファンとベイスターズファンってけっこう仲がいいんですよ(笑) 「来季は一緒にプレーオフ!」、ほんとだよね。貧乏でも頑張ろうね、両チーム!+カープ!

 

今年は、スワローズの古田選手、カープの佐々岡選手、そしてマリーンズの黒木投手と素晴らしい選手たちが引退。なんだか、また一つの時代が終わったような気がしますね。プロ野球ファンにとっては。



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2007/10/08  (月) 体育の日

大善寺(甲斐霊場第18番)

甲州街道を下って、甲斐への玄関口にあるお寺が大善寺。ここらへんは甲陽鎮撫体が壊滅、敗走したあたりのご近所でもありますね。入り口を入ると、お〜っ、またしても階段! たぶん、117段あったと思います。肩で息をする感じで登りきると、迎えてくれるのは仁王門。1704(元禄17)年に創建され、現在のものは、1798(寛政10)年に再建されたものだそうです。 三間一戸の入母屋造、というものだとか。

 
柏尾山大善寺は718(養老2)年に行基が薬師如来像を刻み、本尊として安置したことに始まると伝えられています。甲州街道を下って、ここから甲斐に入るという入り口に構える寺院だけあって、寺域も広く、立派です。1176(安元2)年(1176)に伽藍を焼失、再建された堂塔が1270(文永7)年に再び被災、1286(弘安9)年(1286)に北条貞時によって再建されたのが現在の薬師堂だそうです。
 

この薬師堂は鎌倉和様建築と東大寺大仏様式が組み合わさっているという国宝の建造物だそうです。建築様式のことはさっぱりわかりませんが、落ち着いた風格のある建物であることは確か。堂内にはご本尊の薬師如来像と日光・月光菩薩が安置されていて、いずれもサクラ材による一木造漆箔像で重要文化財になっています。
 
本堂に上げていただくと、長い階段を登った疲れで畳の上に座ってしばし休息。連れが白杖を持つ人だったせいでしょうか、受付にいた僧侶の方が、お経をあげてくださいました。Tシャツとジーンズという姿でしたが(笑)、そのお気持ちがうれしいですよね。ここにはまだ宗教心というものが生きているんだなと思いました。
 
薬師堂の横にある鐘楼は1714(正徳4)年に再興されたもので、かつては1668(寛文8)年の銘がある鐘が釣り下がっていたそうです。この鐘、アジア太平洋戦争のときに供出させらちゃったそうです。なんということでしょう! あの戦争で、お寺の鐘などもずいぶん熔かされてヘルメットかなんかに?なっちゃったらしいですね。現在の鐘は、1983(昭和58)年に行われた弘法大師1158年記念行事に新たに作られたものだそうです。
  
帰り道は階段ではなくゆるやかな坂道。途中に理慶尼のお墓がありました。武田氏滅亡の一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は、「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺にいまも保管されているそうです。
 
薬師堂参拝のあとには庭園に案内されます。庫裏の裏手にあるお庭は、池泉観賞式蓬莱庭園といわれ、県指定の名勝となっています。江戸時代につくられたもので、高野山の普門院、鳥取の興禅寺とともに江戸時代の日本三名園に数えられています。滝や築山石組があり、下側に池泉のある造りは、江戸初期の庭園の典型的なかたちだそうです。
 
大善寺は「ぶどう寺」とも呼ばれています。これは僧行基が甲斐の国勝沼の柏尾で修行していたら、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基がこの姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したからだそうです。ここの薬師如来は葡萄を持っているのです。行基が葡萄の作り方を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりだと伝えられています。甲州葡萄が、そんなに前から栽培されていたとは知りませんでした。
 
お庭を見せていだいている参拝客にも、冷えた葡萄を接待してくださいます。種類ははっきりはわかりませんが、巨峰のような大きい紫の粒、ちょっと薄い色の甲斐路かな、それとうす緑のロザリオビアンコ? どれもおいしくて、みんなで奪い合うようにいただきました。これだけは、この季節に来てよかった〜♪です。



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2007/10/07  (日) 

下石原八幡神社

西光寺に行く途中で、祭礼のお神輿に出会いました。大きな太鼓からドーン、ドーンとお腹に響く音が鳴っています。あれ、お祭ウォッチングなんかしてると、行かなくても向こうから来る? いえいえ、秋祭りの季節だっていうだけですよね(笑)
  
どこのお祭なのかなと思って近寄ってみると「下石原八幡」と書いてあります。うーん、知らない名前だなぁ(^_^;) お祭の世話役らしい年配の女性に「八幡さまは、どちらにあるのですか?」と聞いてみました。丁寧に道順を教えてくれましたが、最後に「小さい神社ですよ、何もありませんよ」と念押しされました。だめじゃん、氏子さんがそんなこと言っちゃ(笑) でも、行ってみました。
 
確かに小さな神社ですが、珍しい形の獅子頭が飾られていました。説明書きには「この獅子頭は大獅子、中獅子、女獅子の三頭で一組になっており、旧下石原地区の鎮守、八幡神社の宝物である」とありました。この獅子頭を用いて行われる獅子舞は元禄時代に始められたものとか。何もないどころか、由緒ありげではありませんか!
 
獅子頭は、その獅子舞を始めた源正寺の住職が作ったものといわれ、いまでも祭礼のときに獅子舞を奉納するとか。あらら、今日? 初詣のときにも見られるとのことです。
 
この神社では神様は獅子に降りるといわれているため、宮神輿はないそうです。巡行するのは太鼓だけ。 あ、あの太鼓がそうだったのか! すごく大きくて、子どもが叩いてもいい音をだしていました。神輿は町内の神輿なんですね。
 
八幡神社の祭神はふつうは応神天皇なのだそうですが、この神社は皇子の仁徳天皇を祀っているので、「若宮八幡」というそうです。本殿の建物は、総けやき造りで、ほぼ全面に精巧な彫刻がほどこされ、調布市の重要文化財になっているとか。武蔵国入間郡中藤沢村(現/入間市)の宮大工杉田石見頭政永と喜兵衛の父子によって建てられたという記録が残っているそうです。
 
何もなくはないじゃないですか! そういえば、近藤勇は西光寺で休息し、若宮八幡に戦勝を祈願したと伝えられているといわれたとき、ん? お寺で休んで神社に戦勝祈願? 若宮八幡ってどこ? とは思ったものの、持ち前のいい加減さで、きっと江戸のどこかの大きな八幡様だろうなんて、聞きとばしていました。もしかして、ここのことだったんだ!
 
いまも昔も、生活の中で神社とお寺がどういう風に扱われていたのか、位置づけられているのか、よくわからないのですが、極楽浄土へ行くことを願ったり、自分自身を救済するためにはお寺参り、戦争に勝つことをお願いしたりするのは神社、なのでしょうか? 残念ながら、若宮八幡は近藤勇の願いは聞き届けてくれなかったようですね。
 
神社の前は国道20号線の、しかも高速道路の出入り口付近とあって、クルマがゴーゴー走ってますが(実際、何百回通り抜けたでしょう、この前を! 神社の存在は全然知らず……(-_-;))、一歩、境内に入るととても緑豊かで、落ち着いた雰囲気です。「上石原鎮守の森は、『はけの緑』に覆われ、古くから里人が自慢したといわれる景観」と説明されています。



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2007/10/06  (土) 

幕末妄想in西光寺

久しぶりに何の予定もない土曜日、新選組改め甲陽鎮撫隊が甲州出陣の際に休息したという西光寺(東京都調布市)にぶらり散歩でいってみました。 京王線の「西調布」駅のすぐそば、旧甲州街道沿いというので、行けばわかるだろうという感じで歩いていくと……、なーんだ何度も通ったことがあるじゃない(^_^;) この先にけっこう大きなゴルフ練習場があって、以前、通ってたことがあるくらいで。
 
1867(慶応3)年3月、甲陽鎮撫隊を率いた近藤勇は、甲府城へ行く途中で、生まれ故郷(といっても10歳ぐらいまでしかいなかったのよね)上石原の西光寺で休息し、若宮八幡に戦勝を祈願したと伝えられています。向かいの名主の中村さんに接待を受けたとか。
 
西光寺には、近藤勇の坐像があります。案外、新しそうだなと思ったら、2001(平成13)年に近藤勇没後130年を記念して、地元の新選組研究団体によって建てられたものだそうです。ちなみに代表者は土方さんという名前の人らしい(笑)

 
近藤勇の像といえば、たいてい腕組みに正座という同じスタイル。写真が一枚しか残っていないので、これが原型なのでしょうが、芸がない? 顔が不細工なのはしょうがない(^_^;) けど、この像は、写真よりちょっと修整してある感じじゃないですか(笑)
 
西光寺の開山は応永年間(1394〜1428年)とされ、はじめは真言宗で、その後、天台宗に変わったそうです。徳川家光から寺領14石2斗を受けた御朱印寺だったということで、なかなか格式は高いようです。
 
宝暦年間(1751〜1764年)に本堂や楼門など大規模の堂が建設されたと伝えられていますが、1879(明治12)年の火災で、山門、楼門以外は焼失したとのこと。本堂に安置されている大日如来坐像には像内に頭髪を包んだ紙片が納められているそうで、1660(万治3)年(1660)に造像した旨と願主の女性の名が記されているとか。新選組妄想どころではなく、江戸時代の貴重な歴史を物語る寺院だったんですね。
左側の仁王様   右側
お寺の記録に宝永年間(1704〜1710年)に弁雄が建てたと記されていて、釣鐘にも弁雄の名が記されているところから18世紀初頭に建造されたと特定できる仁王門は、正面両脇間に仁王像、楼上には銅鐘が釣られています。仁王門でもあり、鐘楼門ともいうそうです。そんなに古いものとは思えないほど、よく保存されているのではないでしょうか。
  
結局、近藤勇は甲州の柏尾山で官軍にやぶれ、敗走して、最終的には流山で捕まって斬首。このお寺にも二度とお参りすることはかなわなかったのですね。故郷にも生きて帰ることのできなかった近藤勇の墓所は、このお寺から歩いて15分ぐらいのところにあります。



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三光寺(甲斐霊場第17番)
深大寺散策