ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2007/10/12  (金) 

池上本門寺「万灯行列」

10月13日は日蓮上人がお亡くなりになられた日で、全国各地でお会式が営まれています。ご命日の法要のようなものですね。日蓮聖人は、1282(弘安5)年9月に身延山から常陸に向かわれ、その途中、武蔵国池上で亡くなられました。61歳だったそうです。この御入滅の霊跡という池上本門寺では、11日から13日まで3日間に渡って盛大なお会式が行われます。長栄山本門寺という名前は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名づけられたものだそうです。 
 
今日の午前中に宗祖御更衣法要というのが営まれ、聖人の御衣を夏物から冬物の御衣にあらためたそうです。午後からの宗祖報恩御逮夜法要には全国から集まった大勢の参詣者や団体参詣が集まられていたとのこと。夕方にはさまざまなお会式の行事の中でも、もっとも賑やかな万灯行列が行われました。だいぶ日が短くなり、すでに夕闇があたりを覆ってきた午後6時、「ゴーン」という鐘楼の鐘の音とともに賑やかな行列が本門寺の山門を入場してきます。ここもまた、すごーい階段があります(-_-;)
 
法華宗は、お題目を唱えると同時に鉦や団扇太鼓を打ち鳴らすので、本当に「賑やか」という感じですね。最初に登場したのはボーイスカウトなどの子どもたち、そして次に圧倒的に男性の多い集団。低い声のお題目と激しい団扇太鼓と鉦の音で、トランス状態に陥りそうな感じですねぇ そのあとには、纏を振る人たちに続いて太鼓や鉦の人が踊ってたりして、これは法要というか、普通にお祭?(笑)
 
しかし、日蓮宗の信者さん?信徒さん?はすごく多いんですねぇ。万灯行列は本門寺までの道のり2キロぐらいを練り歩くそうですが、3000人以上の人が参加しているとか。それは全国から集まるんですものね、それでもほんの一部なのでしょう。
  
行列の人々は参加地域、お寺の名前などが入った提灯を掲げていたり、たすきをしたりしています。確かに北は北海道から……という感じです。そのほかに「立正佼成会」などの提灯を持った人の姿もお見かけしました。そういえば、「霊友会」とか、「創価学会」とかも日蓮宗ですよね。こういう会の人々も参加していらっしゃるのでしょう。そういえば、我が家の菩提寺も日蓮宗だったりしました(^_^;)
 
日蓮上人が亡くなったとき、大地が震動し晩秋にもかかわらず桜の花が咲いたと伝えられているそうです。そのため、お会式のときは仏前に桜の造花を供える習慣があり、万灯も紙で作った造花で灯明が輝く宝塔を飾っています。宝塔も造花もそれぞれ工夫を凝らして個性豊か。なかなかに美しいものでした。
 
万灯を先導する纏は、かつて江戸の火消し衆が参拝するときに行っていたものをみんながやるようになったものらしいです。毎年、全国から集まった100基以上の万灯が、深夜まで練り歩くそうですが、さすがに深夜まではつきあいきれないので、そこそこのところで切り上げました(笑)
  

多くの人で賑わい↑も、↑も、当然のことながら↑も、待機してました。

 
夜店もいっぱいでていました。本当は買い食いをしたいところだけれど、ひとりだと、そこでお好み焼きの立ち食いをしているのもむなしい(笑) そこで薬研堀の七種唐辛子を買ってきました。三角帽子で塩辛声の唐辛子おじさんは出没していないかなぁと思って歩いてみたのですが、残念ながらいませんでした。やっぱり、もはや伝説なんでしょうか。しょうがないから普通のおじさんの店で買いました(笑) 前にいた中年のご夫妻が長々と説明を求めていて、なかなか私が買えなかったのを見ていたらしいおじさんは、2つ買ったのに、プラス1つをオマケしてくれて、「来年も買いに来てね!」だって。さあ、来年は……、たぶん、行かないと思いますm(_ _)m



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2007/10/11  (木) 

景徳院(甲斐霊場第19番)

1582(天正10)年3月11日、織田・徳川連合軍との壮絶な戦の末、武田一族は滅亡します。天竜山景徳院は、武田信玄と由布姫の子、武田勝頼とその正室北条夫人、嫡男信勝の3人が自刃した所として有名です。このとき勝頼37歳、北条夫人19歳、嫡子信勝16歳だったそうです。後に徳川家康が武田の家臣も含めその菩提を弔うために建立したのが景徳院です。当時は七堂迦藍の立派なお寺だったそうですが、二度の火災で焼失し、当時の建物は山門が残っているだけだそうです。
 
16歳で自刃というのは、痛ましいなぁ。とはいえ、日本史にはこんな話はいっぱいありますね。昔の人は死ぬのも早かったけど、おとなになるのも早かったのではないでしょうか。いまの16歳と感覚はだいぶ違いそう。主観的には28歳ぐらいだったような感じがします。根拠なし(笑)
  
このお寺もやっぱり石段! 山門の脇に「近道」という標示がありましたが、とりあえず表通りから上がっていくことにしました。広々した静かな境内です。緑をたたえた小ぶりな庭があり、小さな池に雰囲気があります。静か……ですよね。お留守でございました〜。また御朱印ゲットならず。お寺さんがいらっしゃるときであれば、裏の十六羅漢像もみせてもらえるという話を聞いていたので、ちょっと残念。
 
境内の奥には勝頼らの位牌や遺品が保存されているという「甲将殿」がひっそりと立ち、その前に3人の墓があります。お墓は中央が勝頼、右に夫人、左が信勝、ほかに家臣や侍女なども一緒に葬られているそうです。敗軍の将としては、まずまずの待遇ですね。とにかく、勝頼っていうのもめっぽう強かったらしいし。
 
お墓の前を通り過ぎると、入り口にあった「近道」のところに出ます。この先に本当に遺骸を葬ったところらしい「首無地蔵(没頭地蔵)」があると書いてあったので、降りてみることにしました。しかし、「近道」といわれても、木の根、石ころがゴロゴロの幅1メートルもないような曲がりくねった道で……。こういう所に来るのは年配者が多いのではないかと思いますが、近道どころかちょっと苦行の道。いや、命がけの道かも。
 
降りきるちょっと手前に「没頭地蔵」はありました。これなら、下から登って、すぐ降りて改めて正面の石段をおすすめだなぁ。しかし「首無地蔵」って、すごくリアルな名前で(-_-;) しかも近くにある池は「首洗い池」とか。もうちょっとオブラートに包んでもらえないものかとちょっと思った次第です(笑)
 
山門の外はせせらぎが聞こえ、休憩所のようなものも設けられていて、ちょっとした自然散策の場所としてよさそうです。血なまぐさい歴史の舞台となった場所なのですが、いまは清涼感が漂う山あいの古寺という雰囲気でした。



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2007/10/10  (水) 

武蔵野の龍源寺

西光寺に行った勢いで、近藤勇のお墓参りにも行ってみました。曹洞宗大沢山龍源寺、近藤勇の生家、宮川家の菩提寺です。山門の左手に近藤勇の胸像と天然理心流の碑があります。ここは腕組みしてないのよね(^_^;)
  
この碑は1988年(昭和63)年に三鷹市剣道連盟が建立したものだそうですが、天然理心流の伝統を引き継いでいる道場は、三鷹と調布の双方にあるというようなことを聞いたことがあります。三鷹市剣道連盟では、近藤勇の慰霊剣道大会を開催しているとか。龍源寺は三鷹市にあり、歩いて1分ぐらいのところにある近藤勇の生家後は調布市にあるのではないかしら? ここは境界線みたいです。
  
天然理心流の木刀と演武のフィルムが日本武道館に保存されているそうですが、これを見る機会は一般人にはないのでしょうか。見てみたい気もします。
 
お墓は、本堂の裏手にあります。ここには板橋で首を切られた胴体部分だけが葬られているということですが、それも真偽のほどは明らかではないととか? そういえば、三条河原にさらされ、その後誰かがもちさったといわれる首級が見つかったという話もどこかで聞いたか読んだかした覚えがあるのですが、これは実証されたのかしら? 調べればわかることなのかもしれないけど……(-_-;)
 娘婿や孫?と並んで

 
龍源寺のすぐそばに近藤勇の生家跡というのがあります。跡といっても、何も残っていなくて、嘘か誠か産湯を使った井戸というのが残っているだけですが。説明板に生家の写真がありました。調布市郷土博物館に、生家の模型があるそうです。となりに小さな鳥居があり、「近藤神社」というそうです。ちょっとわびしい風情かな。昭和に入って有志が建てたものだそうです。近藤勇=新選組が市民権?を得るにはやはり長い年月が必要だったのでしょうね。なんてったって、賊軍の将といわれて斬首された人だし。
 

人見街道をはさんだ向かい側には天然理心流道場「撥雲館」というのが残っていました。この道場は近藤勇の娘婿の勇五郎が作ったものらしいです。建物のある敷地の玄関に「近藤」の表札がありましたが、子孫ですかね?

  
 ものはついでと、調布市郷土博物館へ足を運んでみました。入り口を入ると、あっちゃ〜、やっぱり腕組みをしている近藤勇像がお出迎え。確かに、模型はありました。けど、この博物館、やる気あるんでしょうかね? すごくわかりにくいところにあり、入り口を示す看板も目立たないし、やっと気がついてそこを曲がっても、まだ道は枝分かれ。土地勘のない人間は来るな!って言ってるような感じです(笑) 
  
調布市の郷土の歴史がこじんまり展示してあるだけなので、まあ、相当の酔狂か、小学生の学習ぐらいしか人が訪れないのかもしれません。ここの展示を見ると、へぇ〜、調布ってけっこう昔から開けてたのねって思うので、もっとやる気出せばいいのにね(笑)



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2007/10/09  (火) 

2007セリーグ最終戦

今日は今シーズンのセリーグ最終戦。よっぽどコアなファンじゃないと関心はないでしょうが、横浜スタジアムでヤクルトスワローズVS横浜ベイスターズ24回戦が行われました。古田選手がホントにホントの最後のユニフォーム姿を見せた日でもありました。

 
お空の下で野球をやっている関係もあって、横浜スタジアムの最終戦は相手がスワローズであったり、カープであったりすることが多いですね。そして、なぜか全日程の最終日であることも多いような気がします。今年もごたぶんにもれず(笑) 雨流れがさらに雨で流れた再々試合になったカードです。しかも、最終戦がナイトゲームというのも珍しいのではないかと。
 

毎年、最終戦ともなれば、1年間熱心に応援してきたファンたちは、万障繰り合わせて参加するという感じでけっこう人が集まります。ただし、もう秋雨前線って季節ですから、延びて延びて延びまくったりするので、予定が入っちゃって参加できない人もでてきます(-_-;) 去年、私も参加できずだったので、今年はホントに万障繰り合わせて……でもないか(笑)

  
ホーム側はそんなわけで毎年けっこう人が集まりますが、今年は古田選手&監督の最後の試合ということがあって、レフトスタンドも満席。内野席もかなりしっかり入ってました。このカードにしては、トップシーズンより多いくらいかも(^_^;) 7回の応援タイムのときにはバックスクリーンに古田監督が大きく映し出され、スワローズファンの応援ボードもいっぱい映されていました。

  
期待に応えて、「代打オレ」、やってくれました。打席では、360度古田コールで、ライトスタンドも「かっとばせ〜、古田!」です。ピッチャー吉見はちょっとお気の毒(笑) ホントにかっ飛ばされちゃったし(^_^;) ネット裏は、最後の写真を撮ろうとする人たちがどっと集まり、席に座っている人から「見えなーい! 座れ〜!」と怒られてました。と、他人事のように言いながら、私も写真を撮りに行きました(^_^;) 座席より前にはでなかったので、怒られなかったけど。新庄のときにそれと知らずに走っていって怒られたので、学習してました〜(笑)

 
試合も最後は盛り上がり、最後に大矢監督から古田監督に花束。満場の拍手でした。ベイスターズ的には負けて、5割で終了することはできなかったけど、古田監督の最後の試合だから、花をもたせてあげてよかったと。負け惜しみ?(笑)

 
最後は監督のシーズン終了のご挨拶と、選手とファンのふれあいで終了するのですが、選手が引き上げてからも名残を惜しむようにファン同士のエールの交換が続けられていました。スワローズファンとベイスターズファンってけっこう仲がいいんですよ(笑) 「来季は一緒にプレーオフ!」、ほんとだよね。貧乏でも頑張ろうね、両チーム!+カープ!

 

今年は、スワローズの古田選手、カープの佐々岡選手、そしてマリーンズの黒木投手と素晴らしい選手たちが引退。なんだか、また一つの時代が終わったような気がしますね。プロ野球ファンにとっては。



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2007/10/08  (月) 体育の日

大善寺(甲斐霊場第18番)

甲州街道を下って、甲斐への玄関口にあるお寺が大善寺。ここらへんは甲陽鎮撫体が壊滅、敗走したあたりのご近所でもありますね。入り口を入ると、お〜っ、またしても階段! たぶん、117段あったと思います。肩で息をする感じで登りきると、迎えてくれるのは仁王門。1704(元禄17)年に創建され、現在のものは、1798(寛政10)年に再建されたものだそうです。 三間一戸の入母屋造、というものだとか。

 
柏尾山大善寺は718(養老2)年に行基が薬師如来像を刻み、本尊として安置したことに始まると伝えられています。甲州街道を下って、ここから甲斐に入るという入り口に構える寺院だけあって、寺域も広く、立派です。1176(安元2)年(1176)に伽藍を焼失、再建された堂塔が1270(文永7)年に再び被災、1286(弘安9)年(1286)に北条貞時によって再建されたのが現在の薬師堂だそうです。
 

この薬師堂は鎌倉和様建築と東大寺大仏様式が組み合わさっているという国宝の建造物だそうです。建築様式のことはさっぱりわかりませんが、落ち着いた風格のある建物であることは確か。堂内にはご本尊の薬師如来像と日光・月光菩薩が安置されていて、いずれもサクラ材による一木造漆箔像で重要文化財になっています。
 
本堂に上げていただくと、長い階段を登った疲れで畳の上に座ってしばし休息。連れが白杖を持つ人だったせいでしょうか、受付にいた僧侶の方が、お経をあげてくださいました。Tシャツとジーンズという姿でしたが(笑)、そのお気持ちがうれしいですよね。ここにはまだ宗教心というものが生きているんだなと思いました。
 
薬師堂の横にある鐘楼は1714(正徳4)年に再興されたもので、かつては1668(寛文8)年の銘がある鐘が釣り下がっていたそうです。この鐘、アジア太平洋戦争のときに供出させらちゃったそうです。なんということでしょう! あの戦争で、お寺の鐘などもずいぶん熔かされてヘルメットかなんかに?なっちゃったらしいですね。現在の鐘は、1983(昭和58)年に行われた弘法大師1158年記念行事に新たに作られたものだそうです。
  
帰り道は階段ではなくゆるやかな坂道。途中に理慶尼のお墓がありました。武田氏滅亡の一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は、「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺にいまも保管されているそうです。
 
薬師堂参拝のあとには庭園に案内されます。庫裏の裏手にあるお庭は、池泉観賞式蓬莱庭園といわれ、県指定の名勝となっています。江戸時代につくられたもので、高野山の普門院、鳥取の興禅寺とともに江戸時代の日本三名園に数えられています。滝や築山石組があり、下側に池泉のある造りは、江戸初期の庭園の典型的なかたちだそうです。
 
大善寺は「ぶどう寺」とも呼ばれています。これは僧行基が甲斐の国勝沼の柏尾で修行していたら、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基がこの姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したからだそうです。ここの薬師如来は葡萄を持っているのです。行基が葡萄の作り方を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりだと伝えられています。甲州葡萄が、そんなに前から栽培されていたとは知りませんでした。
 
お庭を見せていだいている参拝客にも、冷えた葡萄を接待してくださいます。種類ははっきりはわかりませんが、巨峰のような大きい紫の粒、ちょっと薄い色の甲斐路かな、それとうす緑のロザリオビアンコ? どれもおいしくて、みんなで奪い合うようにいただきました。これだけは、この季節に来てよかった〜♪です。



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下石原八幡神社
保福寺(甲斐霊場21番)