目次
プロローグ | |
昨年いろいろなことがあってバタバタとしていた代償として、... |
トルコへの第一歩 | |
イスタンブールで乗り継いでアンカラへ。空から見たイスタン... |
アンカラ市内 | |
郊外のホテルを出発してアンカラ市内へ。人口約320万人のトル... |
アタチュルク廟訪問 | |
霊廟は広々として、どこも等間隔に衛兵が立っている。「人形の... |
トルコ式トイレに遭遇 | |
ここで、早くもトルコ式トイレに遭遇。トルコ式というのは、... |
トルコ人は親日的 | |
この朝、アタチュルク霊廟にはちょうどどこかの国の要人が表... |
アナトリア文明博物館 | |
次に訪れたのはアナトリア文明博物館。ここにはアナトリア(ト... |
鉄板焼ケバブ | |
博物館を後にして、トルコで初めて食べるランチは、鉄板焼き... |
トゥズ湖 | |
カッパドキアへ向かうドライブの途中でトゥズ湖へ立ち寄った... |
キャラバン・サライ(隊商宿)跡 | |
途中に保存状態がいいというキャラバン・サライ(隊商宿)跡に... |
ガイドさんたち | |
夕方、カッパドキアのホテルに到着。長いトルコ観光第一日目... |
いまどきのトルコ | |
トルコでは大学の女子大生が構内でスカーフをかぶることが解... |
トルコの通信事情 | |
自分の部屋に帰ると、同室の連れはもう爆睡しているらしく、... |
アザーン | |
トルコの大地を踏んで2日目(寝ただけを入れると3日目)は、カ... |
野良猫たち | |
カッパドキアで泊まったホテルは日本でいえば小規模なビジネ... |
カイマクル地下都市 | |
有名な巨大地下都市カイマクルは、ホテルから徒歩で10分くら... |
ウリマクル? | |
「おみやげをカイマクルのは後で」という一言を付け加えるのを... |
カッパドキア奇岩地帯 | |
カッパドキアというのは、「美しい馬」という意味で、地方の名... |
目玉のお守り | |
目玉の木に下がっていたのは、トルコのいたるところで目にす... |
のびーるトルコアイス | |
いろいろな奇岩の風景を次々にめぐり、それぞれ特徴的で驚き... |
ローズバレー | |
ちょっとバスを停めてくれたビューポイント、ローズバレー。... |
民家でチャイをいただく | |
洞窟の中に実際に住んでいるご家族を訪ねて、洞窟住居の暮ら... |
キノコ岩 | |
カッパドキアといえばキノコ岩というくらい、この地方を象徴... |
ギョレメ野外博物館 | |
ギョレメの谷には30以上の岩窟教会があり、このあたり全体が... |
ジュータン攻撃 | |
お約束の「お買い物の店へのご案内」。最初はトルコ絨毯の工場... |
洞窟レストラン | |
この日のランチは洞窟レストランで。これは天然のものではな... |
エフェソス遺跡
エフェス遺跡は、南側のゲートから入り、遺跡群を抜けて北側のゲートに出るコース。かなりの広さがある。チケットを受け取って自動改札のようなゲートを通過すると、野良犬が番をしていた。のんびりと昼寝をしていて危険な感じはない。お、猫も顔を洗っているではないか。
エフェソスはアヤソルク村にある世界最大級の大規模な古代都市遺跡。入り口を入って最初に通りかかったのは、「ヴァリウスの浴場」。2世紀に造られたもので、典型的なローマ風呂の形だそうである。
そして、「オデオン195〜」と呼ばれる小劇場のようなものへ。もっと大きな大劇場もあるが、ここでは数百人ぐらいで会議をしたり、演奏会が開かれていたらしい。
ここは豊穣の女神アルテミスを崇拝していたギリシア人が作った都市だそうだ。もともとは海上貿易の中心となる港町だったが、現在は埋まってしまい、海岸からは離れているとか。
ヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入った。共和制ローマ末期に権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世と共に滞在した地でもあるとか。そうか、クレオパトラってやっぱり実在したのか。伝説の中の人物のような気がしていた(^_^;) その後も古代ローマ帝国の東地中海交易の中心となって栄えた都市である。
いろいろな遺跡が次々に現われるので、そのうち何が何だかわからなくなってくるが、数本の柱が見えるのは「公会堂」。かつてはここに聖火が灯され、その火は消えることはなかったという。聖火を守るのは選ばれた市民で、大エリートだったらしい。
アーチが見えるのは「ポリオの泉」。ここは東ローマ帝国のもとでも、エフェソスは引き続き政治と経済の中心であり、また教会の中心でもあったとか。7世紀にはいると、ペルシアやアラブの勢力が強くなったため、都市を守る城壁が造られた。この頃には、すでに港は土砂で埋まりかかっていたらしい。その結果、外へ港を求めることになり、都市は拡大した。そののちも交易を担う都市であり続けたが、8世紀にたびたびアラブ人の攻撃を受けて、東ローマ帝国はこの地を捨てた。そ管理されなくなった港は完全に埋まったのはそれ以降という。
三角の屋根は102〜104年に建てられた「トラヤヌスの泉」。皇帝トラヤヌスにささげられた泉だそうだ。当時は正面に池があり、そこにあったトラヤヌス皇帝像の足元から水が流れていたという。
「ハドリアヌス神殿」は2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスにささげられた正面の装飾が美しい建物。