2009/06/28 (日)
やる気がでなくて
駅を降りてエスカレータに乗ろうとしたら、右側はいっぱいの人、「左がすいてるじゃん!」と左に行こうとして、それは下ってくるやつでしょう……。我ながら、そうとう注意力が散漫になっているというか、単にボケはじめているというか(笑) 掃除は嫌いなほうですが(^_^;)、「しない」派から、「できない」派になりつつあるような……。なーんかすべてにやる気がでない感じです。ただテレビをつけていて、とくに能動的にチャンネルを替えるわけでもなく。
ブログを書くのも、3日も4日もサボり、あとでまとめてアップしたりして(-_-;) 3日もサボっていたら、「どうした? また肩でも外したか?」と心配して連絡をくれる友人がいて、自分が存在してくれることに関心をもってくれる人がいるということに、なんだかとても感謝しています。ある意味、ブログは私の生存証明(笑)
ちょっとは自分に鞭を入れて、何かしなきゃ! と。おっ、まずは掃除ですか?(笑) はっきりしないお天気と、ムシムシ具合がいかんのですなぁ〜。かといって、梅雨が明けたら、熱帯夜の日々でしょうし。またまた家を出るのも億劫になりそうです。なんとかしてほしいと言っても、自然相手じゃどうにもなりません。ファイト、一発っ! ですかね(笑)
ブログを書くのも、3日も4日もサボり、あとでまとめてアップしたりして(-_-;) 3日もサボっていたら、「どうした? また肩でも外したか?」と心配して連絡をくれる友人がいて、自分が存在してくれることに関心をもってくれる人がいるということに、なんだかとても感謝しています。ある意味、ブログは私の生存証明(笑)
ちょっとは自分に鞭を入れて、何かしなきゃ! と。おっ、まずは掃除ですか?(笑) はっきりしないお天気と、ムシムシ具合がいかんのですなぁ〜。かといって、梅雨が明けたら、熱帯夜の日々でしょうし。またまた家を出るのも億劫になりそうです。なんとかしてほしいと言っても、自然相手じゃどうにもなりません。ファイト、一発っ! ですかね(笑)
2009/06/27 (土)
宝蔵寺
最後に日蓮宗のお寺、宝蔵寺をのぞいてみました。小さなお堂ですが、なんだか古そうな石碑が建っていて、由緒あるお寺なのかもしれません。でも、説明書きがあるわけではないので、詳細は不明。こちらも、ただ何となく立ち寄ってみただけ(^_^;)
その手前に吉祥院とか、大きなお寺もあったようですが、もう帰る時間が迫ってきていました。中山道をちょっとはずれた武蔵野線武蔵浦和駅から電車に乗り、今日の中山道はこれでおしまい。これからの季節は、炎天下のアスファルト道なんか歩いていたら死んじゃうかもしれないので、続きは秋にでもあるいてみたいなぁと思っています。はたして秋に再開できるかどうかもわからないけど……。秋には秋風が吹くでしょう(笑)
その手前に吉祥院とか、大きなお寺もあったようですが、もう帰る時間が迫ってきていました。中山道をちょっとはずれた武蔵野線武蔵浦和駅から電車に乗り、今日の中山道はこれでおしまい。これからの季節は、炎天下のアスファルト道なんか歩いていたら死んじゃうかもしれないので、続きは秋にでもあるいてみたいなぁと思っています。はたして秋に再開できるかどうかもわからないけど……。秋には秋風が吹くでしょう(笑)
2009/06/26 (金)
一里塚の碑
たぶん旧道だったであろうところを歩いて、外環自動車道にぶつかるところに、「一里塚跡」の石碑が立っています。かつてはここに一里塚があり、榎の木があったのです。いまは石碑のみ。江戸時代は「わらびて村」といったようです。こんな街歩きをしていると、本当に古いものはモノノ見事になくなっているなぁと実感します。それは、この時代に大八車を引いて未舗装道路をとことこ旅するわけにもいかないのは当然ですから、残せと言ったって無理な注文でしょう。とくに都市部はそうですね。
ところどころに古い家などは残っていますが、おおむね近代以降というところ。ときには江戸時代からの門などもあるようです。人の住んでいるところはねぇ、保存のために電気や水道を引くななんてことは言えません(笑) わずかに神社仏閣に往事を偲べそうな風情があるばかりですが、それもなかなかにおもしろいものです。旧道には、宿場を描いたタイルなどをはめ込んだところもあり、それぞれに風情を残したいという意欲はあるのでしょう。まあ、どこでもが妻籠や馬籠のようなわけにはいきませんが。いつかたどり着くのでしょうか、妻籠や馬籠に……(^_^;)
ところどころに古い家などは残っていますが、おおむね近代以降というところ。ときには江戸時代からの門などもあるようです。人の住んでいるところはねぇ、保存のために電気や水道を引くななんてことは言えません(笑) わずかに神社仏閣に往事を偲べそうな風情があるばかりですが、それもなかなかにおもしろいものです。旧道には、宿場を描いたタイルなどをはめ込んだところもあり、それぞれに風情を残したいという意欲はあるのでしょう。まあ、どこでもが妻籠や馬籠のようなわけにはいきませんが。いつかたどり着くのでしょうか、妻籠や馬籠に……(^_^;)
2009/06/25 (木)
はね橋
家の周りを取り囲む溝にかける「はね橋」が残っているというので探してみました。歴史民俗資料館分館でもらったイラスト地図には、確かに「はね橋」と描いてあるのですが、どこにあるのか、さっぱりわかりません。溝は、いまではコンクリートでしっかり蓋をされていて、歩道のようになっています。ぐるっと回って立ち往生し、ちょうど庭木の手入れをしていた老婦人に場所を聞いてみると、「さあ、そんなのあったかしら?」と。そして、「そうそう、あれのことかな」と思い出してくださって、場所を教えてくれました。
ご案内通りにいったところは、「やっぱり、さっき通ったよね!」。「どれがそれなの?」と言いながら、また通り過ぎそうになって、発見。「ひょっとして、これ?」。何の説明板もなく、朽ちかけた板が1枚……。もう溝はないので、塀の一部かと思ってしまいました(^_^;) この「はね橋」は、中にいた遊女が逃げられないように普段は上げられていたものだそうで、吉原のおはぐろ溝にかかっていたものと同様なものなのだとか。よくよく見ると、下のほうに渡すときに下ろすための蝶つがいがついています。やっぱり苦界というくらいで厳しい掟に縛られていたんですねぇ。
2009/06/24 (水)
三学院
三学院の境内に入ると、あまりに美しい建物なので驚かされました。色遣いは派手ではないのですが、なんとなく中国的……。「何宗?」と言い合って、どこかに書いてないかと探してみました。「金亀山極楽寺」という正式名称まではわかったのですが、宗派は不明。「禅宗っぽくない?」などと言いながら、帰ってきて調べてみると真言宗智山派だということがわかりました。京都の新義真言宗智山派総本山智積院の末寺で、金亀山極楽寺三学院というのだそうです。創立年代は不明。ご本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることなどから中世以前の創建と考えられているそうです。
江戸時代、1591(天正19)年には、徳川家康から朱印状が授与され、それ以後の徳川歴代将軍からも同様に認められた寺院だったようです。江戸時代には「関東七ヵ寺」の一つに数えられ、僧侶の教育機関だったとか。それで学院なんですかね? 本堂の横には白木造りの真新しい建物が立っていて、何に使われているのかわかりませんが、カタログ写真にでもできそうなくらいきれいで立派。山門が朱塗りで、なかなかカラフル。境内の中央部分が青々とした芝生なのと合わせて、これが異国的に見える理由かもしれません。日本の寺院で芝生というのは、あまり見ないのではないでしょうか。それにしても広いです。境内横には三重塔もありました。
山門前の参道に六地蔵があります。右から3番目の石仏は寛永年間、他は元禄年間の造立と思われる銘が残っているそうです。参道には馬頭観音塔もありました。馬頭観音は比較的よく見るものですが、こちらのは正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」(南無・馬頭観世音)と刻まれているというのは珍しいかも。18世紀最後の年になる1800年、蕨宿の安全を願って造られたものだそうです。
江戸時代、1591(天正19)年には、徳川家康から朱印状が授与され、それ以後の徳川歴代将軍からも同様に認められた寺院だったようです。江戸時代には「関東七ヵ寺」の一つに数えられ、僧侶の教育機関だったとか。それで学院なんですかね? 本堂の横には白木造りの真新しい建物が立っていて、何に使われているのかわかりませんが、カタログ写真にでもできそうなくらいきれいで立派。山門が朱塗りで、なかなかカラフル。境内の中央部分が青々とした芝生なのと合わせて、これが異国的に見える理由かもしれません。日本の寺院で芝生というのは、あまり見ないのではないでしょうか。それにしても広いです。境内横には三重塔もありました。
山門前の参道に六地蔵があります。右から3番目の石仏は寛永年間、他は元禄年間の造立と思われる銘が残っているそうです。参道には馬頭観音塔もありました。馬頭観音は比較的よく見るものですが、こちらのは正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」(南無・馬頭観世音)と刻まれているというのは珍しいかも。18世紀最後の年になる1800年、蕨宿の安全を願って造られたものだそうです。