宝蔵寺
その手前に吉祥院とか、大きなお寺もあったようですが、もう帰る時間が迫ってきていました。中山道をちょっとはずれた武蔵野線武蔵浦和駅から電車に乗り、今日の中山道はこれでおしまい。これからの季節は、炎天下のアスファルト道なんか歩いていたら死んじゃうかもしれないので、続きは秋にでもあるいてみたいなぁと思っています。はたして秋に再開できるかどうかもわからないけど……。秋には秋風が吹くでしょう(笑)
一里塚の碑
ところどころに古い家などは残っていますが、おおむね近代以降というところ。ときには江戸時代からの門などもあるようです。人の住んでいるところはねぇ、保存のために電気や水道を引くななんてことは言えません(笑) わずかに神社仏閣に往事を偲べそうな風情があるばかりですが、それもなかなかにおもしろいものです。旧道には、宿場を描いたタイルなどをはめ込んだところもあり、それぞれに風情を残したいという意欲はあるのでしょう。まあ、どこでもが妻籠や馬籠のようなわけにはいきませんが。いつかたどり着くのでしょうか、妻籠や馬籠に……(^_^;)
はね橋
家の周りを取り囲む溝にかける「はね橋」が残っているというので探してみました。歴史民俗資料館分館でもらったイラスト地図には、確かに「はね橋」と描いてあるのですが、どこにあるのか、さっぱりわかりません。溝は、いまではコンクリートでしっかり蓋をされていて、歩道のようになっています。ぐるっと回って立ち往生し、ちょうど庭木の手入れをしていた老婦人に場所を聞いてみると、「さあ、そんなのあったかしら?」と。そして、「そうそう、あれのことかな」と思い出してくださって、場所を教えてくれました。
ご案内通りにいったところは、「やっぱり、さっき通ったよね!」。「どれがそれなの?」と言いながら、また通り過ぎそうになって、発見。「ひょっとして、これ?」。何の説明板もなく、朽ちかけた板が1枚……。もう溝はないので、塀の一部かと思ってしまいました(^_^;) この「はね橋」は、中にいた遊女が逃げられないように普段は上げられていたものだそうで、吉原のおはぐろ溝にかかっていたものと同様なものなのだとか。よくよく見ると、下のほうに渡すときに下ろすための蝶つがいがついています。やっぱり苦界というくらいで厳しい掟に縛られていたんですねぇ。
三学院
江戸時代、1591(天正19)年には、徳川家康から朱印状が授与され、それ以後の徳川歴代将軍からも同様に認められた寺院だったようです。江戸時代には「関東七ヵ寺」の一つに数えられ、僧侶の教育機関だったとか。それで学院なんですかね? 本堂の横には白木造りの真新しい建物が立っていて、何に使われているのかわかりませんが、カタログ写真にでもできそうなくらいきれいで立派。山門が朱塗りで、なかなかカラフル。境内の中央部分が青々とした芝生なのと合わせて、これが異国的に見える理由かもしれません。日本の寺院で芝生というのは、あまり見ないのではないでしょうか。それにしても広いです。境内横には三重塔もありました。
山門前の参道に六地蔵があります。右から3番目の石仏は寛永年間、他は元禄年間の造立と思われる銘が残っているそうです。参道には馬頭観音塔もありました。馬頭観音は比較的よく見るものですが、こちらのは正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」(南無・馬頭観世音)と刻まれているというのは珍しいかも。18世紀最後の年になる1800年、蕨宿の安全を願って造られたものだそうです。
和樂備神社
蕨城址の隣には和樂備神社があります。「なんて読むんだ?」と思ったら、単に「わらび」でした。1911(明治44)年に町内の18社を合祀して「和樂備神社」と命名されたとのこと。神社としては、歴史が新しいほうなのではないかと思います。歴史とは関係ないでしょうが、本殿もなんだか新しい感じ。境内が広くて、なんだかすっきりとしている印象があります。
もともとは蕨城を築いた渋川氏が、守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりだともいいます。神社の古い御神体「僧形八幡立像」には、1583(天正11)年と書かれた銘があるそうで、創建は16世紀かもしれません。江戸時代には「蕨八幡」と呼ばれ、蕨宿の鎮守様として大事にされていたようです。いまでも、さりげなく買い物帰りのような方々が、自転車を降りて参拝している姿などがみられました。