ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2009/06/26  (金) 

一里塚の碑

たぶん旧道だったであろうところを歩いて、外環自動車道にぶつかるところに、「一里塚跡」の石碑が立っています。かつてはここに一里塚があり、榎の木があったのです。いまは石碑のみ。江戸時代は「わらびて村」といったようです。こんな街歩きをしていると、本当に古いものはモノノ見事になくなっているなぁと実感します。それは、この時代に大八車を引いて未舗装道路をとことこ旅するわけにもいかないのは当然ですから、残せと言ったって無理な注文でしょう。とくに都市部はそうですね。
         
ところどころに古い家などは残っていますが、おおむね近代以降というところ。ときには江戸時代からの門などもあるようです。人の住んでいるところはねぇ、保存のために電気や水道を引くななんてことは言えません(笑) わずかに神社仏閣に往事を偲べそうな風情があるばかりですが、それもなかなかにおもしろいものです。旧道には、宿場を描いたタイルなどをはめ込んだところもあり、それぞれに風情を残したいという意欲はあるのでしょう。まあ、どこでもが妻籠や馬籠のようなわけにはいきませんが。いつかたどり着くのでしょうか、妻籠や馬籠に……(^_^;)
 



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2009/06/25  (木) 

はね橋

家の周りを取り囲む溝にかける「はね橋」が残っているというので探してみました。歴史民俗資料館分館でもらったイラスト地図には、確かに「はね橋」と描いてあるのですが、どこにあるのか、さっぱりわかりません。溝は、いまではコンクリートでしっかり蓋をされていて、歩道のようになっています。ぐるっと回って立ち往生し、ちょうど庭木の手入れをしていた老婦人に場所を聞いてみると、「さあ、そんなのあったかしら?」と。そして、「そうそう、あれのことかな」と思い出してくださって、場所を教えてくれました。
 
ご案内通りにいったところは、「やっぱり、さっき通ったよね!」。「どれがそれなの?」と言いながら、また通り過ぎそうになって、発見。「ひょっとして、これ?」。何の説明板もなく、朽ちかけた板が1枚……。もう溝はないので、塀の一部かと思ってしまいました(^_^;) この「はね橋」は、中にいた遊女が逃げられないように普段は上げられていたものだそうで、吉原のおはぐろ溝にかかっていたものと同様なものなのだとか。よくよく見ると、下のほうに渡すときに下ろすための蝶つがいがついています。やっぱり苦界というくらいで厳しい掟に縛られていたんですねぇ。

 



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2009/06/24  (水) 

三学院

三学院の境内に入ると、あまりに美しい建物なので驚かされました。色遣いは派手ではないのですが、なんとなく中国的……。「何宗?」と言い合って、どこかに書いてないかと探してみました。「金亀山極楽寺」という正式名称まではわかったのですが、宗派は不明。「禅宗っぽくない?」などと言いながら、帰ってきて調べてみると真言宗智山派だということがわかりました。京都の新義真言宗智山派総本山智積院の末寺で、金亀山極楽寺三学院というのだそうです。創立年代は不明。ご本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることなどから中世以前の創建と考えられているそうです。
 
江戸時代、1591(天正19)年には、徳川家康から朱印状が授与され、それ以後の徳川歴代将軍からも同様に認められた寺院だったようです。江戸時代には「関東七ヵ寺」の一つに数えられ、僧侶の教育機関だったとか。それで学院なんですかね? 本堂の横には白木造りの真新しい建物が立っていて、何に使われているのかわかりませんが、カタログ写真にでもできそうなくらいきれいで立派。山門が朱塗りで、なかなかカラフル。境内の中央部分が青々とした芝生なのと合わせて、これが異国的に見える理由かもしれません。日本の寺院で芝生というのは、あまり見ないのではないでしょうか。それにしても広いです。境内横には三重塔もありました。
        
山門前の参道に六地蔵があります。右から3番目の石仏は寛永年間、他は元禄年間の造立と思われる銘が残っているそうです。参道には馬頭観音塔もありました。馬頭観音は比較的よく見るものですが、こちらのは正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」(南無・馬頭観世音)と刻まれているというのは珍しいかも。18世紀最後の年になる1800年、蕨宿の安全を願って造られたものだそうです。
       



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2009/06/23  (火) 

和樂備神社

蕨城址の隣には和樂備神社があります。「なんて読むんだ?」と思ったら、単に「わらび」でした。1911(明治44)年に町内の18社を合祀して「和樂備神社」と命名されたとのこと。神社としては、歴史が新しいほうなのではないかと思います。歴史とは関係ないでしょうが、本殿もなんだか新しい感じ。境内が広くて、なんだかすっきりとしている印象があります。
 
もともとは蕨城を築いた渋川氏が、守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりだともいいます。神社の古い御神体「僧形八幡立像」には、1583(天正11)年と書かれた銘があるそうで、創建は16世紀かもしれません。江戸時代には「蕨八幡」と呼ばれ、蕨宿の鎮守様として大事にされていたようです。いまでも、さりげなく買い物帰りのような方々が、自転車を降りて参拝している姿などがみられました。
 



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2009/06/22  (月) 

蕨城址

蕨城址は、江戸の絵図面によれば幅6間半の堀と幅4間半の土塁をめぐらせといいますから、12メートル弱のお堀と8メートル強の土塁があったということですね。これがお城として大きいほうなのか、小さいほうなのかは、私にはわかりませんが(^_^;) 14世紀半ばに足利将軍家の一族が武蔵国を治めるのに建てたお城だったそうです。江戸時代になって、初期の頃は家康の御殿になっていたとか。いまは、そうと言われればそうかもという感じの堀の一部が残されているのみ。1951年に本丸跡に蕨城址碑が建てられ、1974年に土塁の一部を復元して城址公園と市民会館になったとのことです。

 

 石碑の前は、ちょうどいい日陰になっているので、ここでお弁当を広げることにしました。そう、今回はお弁当持参。行程に城址公園があるというので、ありあわせでおかずをつくり、おにぎりをもってきたのでありました。たまには外で食べるご飯もいいものです。と、思ったら、数か所、蚊に刺されました〜。鳩も寄ってきます。ここでお弁当を広げる人って、けっこういるのではないかと思われます。鳩の近寄り方に熟練を感じましたから(笑)

 

入口にお地蔵様があり、そこにお酒をかけてお参りしている方がいました。しかも一升瓶で気前よく! お地蔵様と一升瓶はあまりにも似合わない感じがして、忘れ得ぬ思い出になりそうですよ。ちょっともったいないような気も(^_^;) 



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歴史民俗資料館
アーミーナイフ