ある小説の中に、世界を旅して「何を祀ってあるのかわからないんだけど、地元の人が拝んでいるものには手を合わせることににました。そうしたら、なぜか商売がうまくいくようになったんですよ」というフレーズがありました。SFだし、本筋とはまったく関係ないんだけど、心に残った一節です。そんなわけで(どんなわけで?)、日々の何気ないできごとを綴ってみようかと思います。
2009/05/21  (木) 

東光寺&観明寺

庚申塚からいったん国道17号線に出て、この広い道を渡ると、また旧中山道を歩けることになります。この道の入口近くにあるお寺が東光寺。道に面しているわけではないので、ちょうど荷下ろし中の酒屋さんに場所を聞きました。「観明寺なら隣だけど、東光寺は手前を左に。法事ですか?」と逆に聞かれてしまいました。法事って格好はしていませんでしょ、私たち(笑) 丁寧に道を教えてくださったばかりではなく、観明寺の所在までわかって、たいへん助かりました。
 
東光寺という名前のお寺はけっこう多いような気がします。「東光」は東方浄瑠璃世界を意味するそうですね。板橋の東光寺は浄土宗丹船山薬王樹院東光寺というのが正式名称でした。江戸時代には境内も広く、門前町もにぎわっていたそうですが、いまはひっそりとしたフツーのお寺の感じです。1719(享保4)年に建立された平尾追分地蔵、本名「六道利生の地蔵尊」、1662(寛文2)年建立の青面金剛像を刻んだ「庚申塔」、そして、宇喜多秀家の供養塔などがあるそうです。ん、豊臣方? 関ヶ原で負けてから八丈島に流され、それでも1665(明暦元)年83歳まで生きたそうです。供養塔は明治になってから子孫が建立したものだとか。そのどれもに説明板も、「これだよ!」という表示もありません。どれがどれやら……。その道の造詣が深い人でなければ発見できないこと請け合いです(笑)
 
観明寺は通りに面していて、参道入口にある庚申塔には、ちゃんと表示がありました。1661(寛文元)年に建立されたもので、青画金剛像が彫られたものとしては、都内最古とか。板橋区の指定有形文化財になっています。東光寺の庚申塔より1年ほど「勝った!」という感じでしょうか(^_^;) 正式名称は真言宗豊山派如意山観明寺。境内には鳥居もあり、長の歴史を感じさせます。出世不動だそうです。ちゃんとお願いしておかなくちゃ(笑)
 



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2009/05/20  (水) 

近藤勇の墓

流山で捕まって、板橋で処刑されたという近藤勇のお墓が、板橋駅東口にありました。ここが処刑場だったというわけではないようですが、戊辰戦争を生き延びた永倉新八によって建立されたお墓です。近藤勇と土方歳三の双方のお墓となっていますが、もちろん遺骸が埋まっているわけではありませんから、慰霊碑という感じでしょうか。側面には100名を超える新選組隊士の名前も刻まれています。1876(明治9)年に建立されたものだそうです。
 
土方さんのお墓も多摩や函館など複数ありますが、近藤さんのほうも会津や多摩をはじめ、米沢や岡崎などにもあるようです。なにせ、亡くなったときには天下の大悪人ですから、周りの人はみんなこっそり葬り、はっきりした記録も残せなかったのでしょう。あちこち行かなきゃならないから、お墓参りも忙しいです(^_^;)
 
高さ4メートル弱の立派なお墓の横には、最初に遺体が埋められたところに置いた石というのがあります。かつて刑場跡から少し離れたところに無縁仏をまつる塚があり、最初はここに埋葬されたとされているようなので、そこにあった石でしょうか。娘婿の近藤勇五郎が役人を抱きこんで、首のない遺骸を掘り起こし、多摩の龍源寺に埋葬したという話が伝えられていますが、これも本当かどうかはわからないそうですね。掘り起こして調べてみればいいのにね? 不謹慎かなぁ(-_-;)
 
局長と副長のお墓の隣には、このお墓を立てた永倉新八さんのお墓もあります。こちらは1929(昭和4)年に建てられたそうですが、こっちのほうが立派? ここには新八さんの遺骨が分骨されているとか。

 
中山道を歩く企画で、新選組ウォッチングのリストが一つクリアしました(^_^;) 京都、甲府、宇都宮、会津、函館、もちろん多摩とめぐりめぐって、今度は流山に行ってみたいですね。あと、本徳寺にも。遠いところは何度も行っていたりするのに、近いところほどなかなか行くチャンスがありません。「ついで」を探しているといつまでたっても行けそうもないので、今度は流山を目指したいと思います。
 



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2009/05/19  (火) 

庚申塚

地蔵通り商店街を抜けると、唯一残された都電、荒川線に出会います。そのちょっと手前に「巣鴨猿田彦大神庚申堂」はありました。小さなお社ですが、この辺りは中山道の第一宿、板橋宿を前に、江戸時代には立場(休憩所)として賑わっていたところだそうです。「江戸名所図会」にも描かれていて、茶店の上のほうにちょっとだけ描かれている石碑が庚申塚なのだとか。1657(明暦3)年に造立されたとのことです。
 
庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支です。丙午(ひのえうま)の年に生まれた女の子はじゃじゃ馬になるとかで、いっきに出生率が落ちるようですが、昔は干支で暦を作ったので庚申の年というのもあります。庚申塚はそのほとんどが庚申の年に建てられているといいますが、1657年を調べてみたら、丁酉(ひのととり)でした。なぜ? 庚申の年は60年に1度めぐってきます。最近では1980年(昭和55)でした。つぎは2040年。一生に2度も遭遇する人は少ないでしょう(^_^;)
 
庚申の申は猿のことなので、それが猿田彦と結びつき、道案内の神さまになって道の交わる辻などよく建てられたといいます。三蔵法師を道案内した猿、孫悟空とも関係があるそうな。私には庚申の日って「徹夜で無駄話をする日」というイメージしかありません。何かの小説で、長ったらしい説明をする人に「そんな話は庚申の晩にでもしておくれ!」と言ったというのを読んだことがあり、庚申の日=無駄話と私の脳には刷り込まれてしまったようです(^_^;)
 
庚申信仰というのがあるようで、中国の道教と関係があり、体内には「三尸(さんし)」という虫がいて、庚申の日の夜、その人が眠っている間に天に上って、閻魔さまにその人の罪をチクるとか。大きな罪なら300日、小さな罪なら3日、閻魔さま命を短くされるそうです。ということは、その日は眠らなければよい、と。起きていれば、三尸もチクれめぇ。というわけで、庚申の晩には徹夜すれば長生きできるということらしいです。すると、「無駄話」ではなくて、「徹夜」と覚えるべきものでしたね(笑)
 



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2009/05/18  (月) 

勝負パンツ?

巣鴨から旧中山道を歩く、というのは、つまり“おばあちゃんの原宿”地蔵通り商店街を歩くということになります。そぞろ歩いているとなんだか赤い下着を売っているお店が目立ちます。最近、流行っていると聞いてはいましたが、ホントにそんなに人気なのかな? 巣鴨に来るのは久しぶりですが、確かに前に来たときはこんなに赤いパンツが目につく通りではなかったような気もします。
 
赤いものを身につけると身体のエナジーが高まり、健康になるとか、幸運をよぶとか、いま流行っているらしいですね。そういえば、風水にはまっている藤原紀香さんが陣内くんに無理やり赤いパンツをはかせたのが離婚の原因になったとかならないとか(笑) 「勝負パンツ?」「何の勝負をするんだ?」「いや、勝負はしないでしょう」などとバカな話をしながら歩いていると、ひときわ真っ赤なお店を発見。赤パンツに加え、赤シャツや赤腹巻、赤タオルなどなにからなにまで真っ赤っ赤。「赤を身につけると、一生シモの世話にならない」という言い伝えから、老婦人に人気が高いらしいのです。確かにシモの世話にはなりたくないものですが、全身真っ赤はいかがなものでしょう(笑) 地味な服を着た老婦人が、パッと脱いだら下着はすべて真っ赤というのはインパクトが強いでしょうねぇ。
 
真っ赤に目を奪われて、お地蔵様にお参りするのを忘れちゃう人も多いのかと思いきや、やっぱり「とげぬき地蔵」はお参りの方々で混雑していました。“おばあちゃんの”と言われますが、けっこう若い方々の参詣も多いようです。「洗い観音」として知られる「聖観世音菩薩」にも洗いたい人の行列ができていました。「明暦の大火」で妻をなくした屋根屋喜平次、供養のために高岩寺に寄進した聖観世音菩薩像。なぜ自分の悪いところを洗うと治るという信仰があるのかはわかりませんが、私などは全身ゴシゴシ洗わないとならないと思うので……、ご遠慮申し上げました(^_^;)
 



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2009/05/17  (日) 

江戸六地蔵

巣鴨の駅から旧中山道に入る入口に真性寺があります。ここは江戸六地蔵の一つがあるお寺です。が、ちょうどお留守にぶつかってしまったようで。修復のために京都へおいでになっていて、お地蔵様は「お身代わり」でございました。本物はもう少し大きなものであるようです。
 
江戸六地蔵というのは、深川の地蔵坊正元が、江戸の出入口6箇所にお地蔵さまを造ったもの。京都の六地蔵をまねたもので、1706(宝永3)年頃から江戸の人々からカンパを募って立てたもののようです。カンパって、つまりはご寄進ですが、合わせて72,000人以上だとか。
 
1番は品川寺、旧東海道沿いに1708(宝永5)年(1708年)に造られたもの。2番目は浅草にある東禅寺で奥州街道沿いに1710(宝永7)。3番目は新宿の太宗寺、甲州街道沿いに1712(正徳2)、4番目がここ眞性寺で、1714(正徳4)年に旧中仙道のお守り。5番目は水戸街道の沿いで1717(享保2)年に造立された霊巌寺。6つ目が深川の永代寺に1720(享保5)年に千葉街道のお守りとして作られたものですが、廃仏毀釈により取り壊されたため、ここだけは深川公園に石碑が残るだけです。代わりに上野の浄明院に代仏が祀られていますが、これは1906(明治39)年に造られたもので、もう20世紀ですから、ずいぶん新しいですね。
 
およそ12年間に6体、18世紀初頭の江戸の街として広さが感じられますね。この御地蔵様から外へは旅立ちだったのでしょう。所払いか?(笑) 大きさはいずれも3メートル弱で、当時としてはすっごく大きなお地蔵様だったのではないでしょうか。次に真性寺をお訪ねできるのがいつかはわかりませんが、いつかまたお目にかかることを楽しみにして、私たちは中山道へ旅立ちましょう(笑)
 



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中山道3
マスク狂騒