近藤勇の墓
流山で捕まって、板橋で処刑されたという近藤勇のお墓が、板橋駅東口にありました。ここが処刑場だったというわけではないようですが、戊辰戦争を生き延びた永倉新八によって建立されたお墓です。近藤勇と土方歳三の双方のお墓となっていますが、もちろん遺骸が埋まっているわけではありませんから、慰霊碑という感じでしょうか。側面には100名を超える新選組隊士の名前も刻まれています。1876(明治9)年に建立されたものだそうです。
土方さんのお墓も多摩や函館など複数ありますが、近藤さんのほうも会津や多摩をはじめ、米沢や岡崎などにもあるようです。なにせ、亡くなったときには天下の大悪人ですから、周りの人はみんなこっそり葬り、はっきりした記録も残せなかったのでしょう。あちこち行かなきゃならないから、お墓参りも忙しいです(^_^;)
高さ4メートル弱の立派なお墓の横には、最初に遺体が埋められたところに置いた石というのがあります。かつて刑場跡から少し離れたところに無縁仏をまつる塚があり、最初はここに埋葬されたとされているようなので、そこにあった石でしょうか。娘婿の近藤勇五郎が役人を抱きこんで、首のない遺骸を掘り起こし、多摩の龍源寺に埋葬したという話が伝えられていますが、これも本当かどうかはわからないそうですね。掘り起こして調べてみればいいのにね? 不謹慎かなぁ(-_-;)
局長と副長のお墓の隣には、このお墓を立てた永倉新八さんのお墓もあります。こちらは1929(昭和4)年に建てられたそうですが、こっちのほうが立派? ここには新八さんの遺骨が分骨されているとか。
中山道を歩く企画で、新選組ウォッチングのリストが一つクリアしました(^_^;) 京都、甲府、宇都宮、会津、函館、もちろん多摩とめぐりめぐって、今度は流山に行ってみたいですね。あと、本徳寺にも。遠いところは何度も行っていたりするのに、近いところほどなかなか行くチャンスがありません。「ついで」を探しているといつまでたっても行けそうもないので、今度は流山を目指したいと思います。
庚申塚
庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支です。丙午(ひのえうま)の年に生まれた女の子はじゃじゃ馬になるとかで、いっきに出生率が落ちるようですが、昔は干支で暦を作ったので庚申の年というのもあります。庚申塚はそのほとんどが庚申の年に建てられているといいますが、1657年を調べてみたら、丁酉(ひのととり)でした。なぜ? 庚申の年は60年に1度めぐってきます。最近では1980年(昭和55)でした。つぎは2040年。一生に2度も遭遇する人は少ないでしょう(^_^;)
庚申の申は猿のことなので、それが猿田彦と結びつき、道案内の神さまになって道の交わる辻などよく建てられたといいます。三蔵法師を道案内した猿、孫悟空とも関係があるそうな。私には庚申の日って「徹夜で無駄話をする日」というイメージしかありません。何かの小説で、長ったらしい説明をする人に「そんな話は庚申の晩にでもしておくれ!」と言ったというのを読んだことがあり、庚申の日=無駄話と私の脳には刷り込まれてしまったようです(^_^;)
庚申信仰というのがあるようで、中国の道教と関係があり、体内には「三尸(さんし)」という虫がいて、庚申の日の夜、その人が眠っている間に天に上って、閻魔さまにその人の罪をチクるとか。大きな罪なら300日、小さな罪なら3日、閻魔さま命を短くされるそうです。ということは、その日は眠らなければよい、と。起きていれば、三尸もチクれめぇ。というわけで、庚申の晩には徹夜すれば長生きできるということらしいです。すると、「無駄話」ではなくて、「徹夜」と覚えるべきものでしたね(笑)
勝負パンツ?
赤いものを身につけると身体のエナジーが高まり、健康になるとか、幸運をよぶとか、いま流行っているらしいですね。そういえば、風水にはまっている藤原紀香さんが陣内くんに無理やり赤いパンツをはかせたのが離婚の原因になったとかならないとか(笑) 「勝負パンツ?」「何の勝負をするんだ?」「いや、勝負はしないでしょう」などとバカな話をしながら歩いていると、ひときわ真っ赤なお店を発見。赤パンツに加え、赤シャツや赤腹巻、赤タオルなどなにからなにまで真っ赤っ赤。「赤を身につけると、一生シモの世話にならない」という言い伝えから、老婦人に人気が高いらしいのです。確かにシモの世話にはなりたくないものですが、全身真っ赤はいかがなものでしょう(笑) 地味な服を着た老婦人が、パッと脱いだら下着はすべて真っ赤というのはインパクトが強いでしょうねぇ。
真っ赤に目を奪われて、お地蔵様にお参りするのを忘れちゃう人も多いのかと思いきや、やっぱり「とげぬき地蔵」はお参りの方々で混雑していました。“おばあちゃんの”と言われますが、けっこう若い方々の参詣も多いようです。「洗い観音」として知られる「聖観世音菩薩」にも洗いたい人の行列ができていました。「明暦の大火」で妻をなくした屋根屋喜平次、供養のために高岩寺に寄進した聖観世音菩薩像。なぜ自分の悪いところを洗うと治るという信仰があるのかはわかりませんが、私などは全身ゴシゴシ洗わないとならないと思うので……、ご遠慮申し上げました(^_^;)
江戸六地蔵
江戸六地蔵というのは、深川の地蔵坊正元が、江戸の出入口6箇所にお地蔵さまを造ったもの。京都の六地蔵をまねたもので、1706(宝永3)年頃から江戸の人々からカンパを募って立てたもののようです。カンパって、つまりはご寄進ですが、合わせて72,000人以上だとか。
1番は品川寺、旧東海道沿いに1708(宝永5)年(1708年)に造られたもの。2番目は浅草にある東禅寺で奥州街道沿いに1710(宝永7)。3番目は新宿の太宗寺、甲州街道沿いに1712(正徳2)、4番目がここ眞性寺で、1714(正徳4)年に旧中仙道のお守り。5番目は水戸街道の沿いで1717(享保2)年に造立された霊巌寺。6つ目が深川の永代寺に1720(享保5)年に千葉街道のお守りとして作られたものですが、廃仏毀釈により取り壊されたため、ここだけは深川公園に石碑が残るだけです。代わりに上野の浄明院に代仏が祀られていますが、これは1906(明治39)年に造られたもので、もう20世紀ですから、ずいぶん新しいですね。
およそ12年間に6体、18世紀初頭の江戸の街として広さが感じられますね。この御地蔵様から外へは旅立ちだったのでしょう。所払いか?(笑) 大きさはいずれも3メートル弱で、当時としてはすっごく大きなお地蔵様だったのではないでしょうか。次に真性寺をお訪ねできるのがいつかはわかりませんが、いつかまたお目にかかることを楽しみにして、私たちは中山道へ旅立ちましょう(笑)
中山道3
正しくは染井霊園で、都営霊園ですが、染井墓地と呼ばれることが多いようです。もともとは水戸徳川家墓所だったそうで、徳川斉昭の生母など徳川関連のお墓もいくつか残っています。高村光太郎・千恵子夫妻のお墓もこちら。都営霊園は8ヵ所あるそうですが、その中ではもっとも小さいのだとか。それでも面積はや徳川昭武の生母、側室高橋悦子の墓がある。面積は67,911平方メートル20543坪、およそ7町というところですが、どの単位でもまったくイメージできません(笑) 畳何畳? ちなみに麻生総理の本家はこのぐらいの敷地だとか(^_^;) ここに約5,500基のお墓があるそうです。昔は染井村といわれたあたりで、ソメイヨシノの発祥の地とも言われています。霊園の遊歩道の一部は桜並木になっていて、桜の名所の一つですが、当然のことながらいまはうっそうとした葉桜。
お隣は振袖火事の火元として知られる本妙寺。ここは我が家の菩提寺だったりするので何度も足を運んでおりますが、モモタロウ様ごあんな〜い。千葉周作、遠山の金さんなど、江戸時代の著名人のお墓があります。千葉周作といえば北辰一刀流の創始者ですが、モモタロウからご質問。「坂本竜馬の先生?」。さあ、どうだったでしょうか。うやむやなまま通り過ぎたら、モモタロウがさっそく調べてくれました。清河八郎や山南敬助の師匠だったそうですが、坂本竜馬は弟の千葉定吉が師匠。どうも話が新選組にかたよりますね(笑) 北辰一刀流の道場「玄武館」はいまは杉並のほうにあり、一度、見学してみたいなぁと思っているのですが、朝7時ごろからの稽古のようで、私には早朝過ぎる……(^_^;)
本妙寺を出て、「やっちゃば」を通り過ぎ、ちょっと戻って中山道の旧道に入ることにします。ここは前回、石柱だけが立っていた「江戸三大青果市場」の引越し先です。広い場内は午前も遅い時間のせいか、静かでした。今回の中山道、寄り道も入れてなんと12キロも歩いたのですよ!