風邪
暑い日が続いて半袖になると今度は急に寒くなり。寒いと言っても5月にもなってコートもないかなぁと上着ぐらいで出かけて震え上がり。晴れて気温が上がるといっても、まだ半袖じゃないほうがいいかなと長袖シャツを着て出かけたら汗だくになり。すぐに着替えなかったために汗が冷え……。
要因はいろいろありそうですが、気温の変化に身体がついていかないって感じです。しかも着るもののチョイスが後手後手に回っているとか(^_^;) しかも、すでに風邪っぴき経験者から「長引きますよ〜」と脅かされ。そう、確かに極度に悪化しないまでも、なんとなくだるくて頭も回らない状態が続いています<えっ、いつも回ってない?
5月には、もう「風薫る」とか、「目に青葉」とか、「さわやか」というイメージはなくなりそうですよね。「寒い」か「暑い」。「冬」か「夏」。「乾季」か「雨季」。それほど単純なら、風邪なんかひくなよって感じですけど(笑)
沖縄が梅雨入りしたとテレビが言っていました。例年より2週間も遅いそうですね。そして、7月は去年よりさらに暑くなりそうとか。冗談ではなく「猛暑日」を超える「酷暑日」が設定されそうで、いまからうんざり。このテンション↓は、やっぱり風邪ひきのせいでしょうか。
願成寺(甲斐霊場第77番)
こちらも曹洞宗、ご本尊は阿弥陀如来です。広い境内を持つお寺ですが、しっかり戸締りがしてありシーンと静まり返っています。 片隅に仏足跡があり、足跡に沿ってお賽銭が置かれています。別に線に沿っておかなくても……と思うのですが、これは気分の問題なのでしょうか。
願成寺には、甲斐武田家の初代当主信義の墓地があります。信義が没したのは鎌倉初期、12世紀末ぐらいですが、このお墓は角礫凝灰岩の大五輪塔、方形の地輪、球状の水輪、半球状の風輪、最上部は風空輪というものだそうで、典型的な鎌倉時代初期の塔形だそうです。10世紀近く風雪にさらされ、ちょっとくたびれた感じではありますが、よく保存されています。
願成寺は771(宝亀2)年に開創された京都祇園寺の末寺で、信義が諸堂を整備したとき、京都から阿弥陀三尊を迎えて本尊としたそうです。16世紀末、織田勢の焼き討ちによって伽藍は焼失しましたが、仏像は焼失を免れ、現在は本堂左手にある平泉の中尊寺を模した保存庫に安置されています。事前に連絡すれば拝観可能だそうですが、私たちのような気まぐれお寺めぐりではそれもかなわず、ですね。阿弥陀如来坐像は漆箔で寄木造り、左脇侍は観音菩薩立像、右脇侍は勢至菩薩立像で、台座なども含めて鎌倉初期のままなのだとか。 重要文化財の指定を受けています。
このお寺に最初の山門が建立されたのは1662(寛文2)年だそうですが、幕末も近い1864(元冶元)年、暴風雨で倒壊。ずっと再建ができずにいたものを1990(平成2)年になってやっと念願がかなったのだとか。それというのも山門に掲げられた山号額が後白河法皇から下賜された貴重なものだから。それは掲げたいですよね、やっぱり。欅の一枚板で「鳳凰山」の文字が力強く書かれ、市指定の文化財になっています。
寒くなく、暑すぎもせず、お寺参りにも心地よい季節になりました。雨の季節になる前に、せっせと歩き回らなければ!
常光寺(甲斐霊場第76番)
どこまでクルマで入っていっていいのかなと思いつつ、通れる道がある限り入っていってしまうと美しく手入れされた庭の脇を通過しました。この庭が常光寺の庭。「ミニ鳳凰」と呼ばれる庭園だそうです。鳳凰山をもして造園されたとか。鳳凰山は韮崎市と南アルプス市の境にある山並みで、地蔵ケ岳、観音岳、薬師岳の総称です。
大きな鯉が優雅に泳ぎ、ツツジがたくさん植えられています。それほど大きな庭ではありませんが、ツツジが咲いているときならばさぞや美しい風景なのではと思います。青葉のいま頃ももちろん悪くない風情です。
曹洞宗のお寺でご本尊は阿弥陀如来。本堂に鍵は掛けられておらず、お参りすることができました。が、呼べど叫べど、どなたもいらっしゃらないようです。無用心といえば無用心ですが、そういうのもお寺さんらしい感じではありませんか。
もともとは青木十郎太郎常光が開基した真言宗のお寺で、その後、青木尾張守信定が十郎太郎常光の菩提をとむらうために中興、曹洞宗のお寺として開山し、いまに至っています。
青木家の武威が隆盛することを願って「武隆山」と号したというこの扁額のかかる山門は、400年ぐらい前の建築といわれます。派手さはありませんが、どっしりとした造りです。山門を入ると、たくさんのお地蔵さまが並んでいます。 お寺の背後にそびえる地蔵岳は子授け地蔵の山。そこで山を登る体力のない人は、このお寺のお地蔵さまに安産、子育てのお願いをするようになったのだそうです。だからでしょうか、たくさんのお地蔵さまが大切にされているようです。
夕やけだんだん
谷中商店街の入口に「夕やけだんだん」という階段があります。ここからきれいな夕やけが見えるのでしょうか。何の変哲もないコンクリートの階段なのだけれど、このネーミングのおかげで、なんとも風情のある場所のように感じられるから不思議です。
この「だんだん」を降りていくと、商店街。こちらも昔はどこででも見られたような風景でしょう、両側に商店が並ぶ狭い道です。ここにいろいろなところから観光客?がやってきて雰囲気を楽しんでいるんですね。美味しいと評判になっているらしい店の前にはコロッケを求める人の行列ができていました。「谷中銀座」という名称も昔っぽくていいです。
その商店街散歩をした後は墓地散歩。どちらも「散歩」という言葉には不似合いな感じですが、なかなかこれが楽しいのです。谷中墓地の真ん中には徳川の墓所もあります。ここに裏切り者(笑)の慶喜のお墓があるというので、行ってみました。
丸くこんもりした墓石は、「水戸は神道だから」なのだそうです。それを教えてくれたのは墓所の前に陣取っていた不思議なおじさん。慶喜のお墓を見に来る人を次々と捕まえては、お墓の形の説明や、徳川墓所に眠っている将軍や正室や側室の話などをしてくれます。「してくれます」っていうか、最初は知らないことを教えていただいてありがたいのですが、しまいには「捕まっちゃった」という感じに(笑) はやく誰か他の人が来て、選手交代してくれないかしらん、と。自主的観光ボランティアなのでしょうか、徳川オタク?
やっと解放されて、またまたのんびり墓地散歩をしながら寛永寺に。こんなにちっちゃくなっちゃって……という感じですね。もっと立派な彰義隊の石碑でもあるのかなぁと思っていたのだけれど、ま、しょうがない、戦争に負けちゃったんだもんね。
疲れた足を引きずって上野公園にたどり着けば、パンダがいなくても動物園は親子連れでにぎわっていました。高いお金払ってパンダをお借りして、さらにお育てすることもあるまいという石原くんの言い分にも一理ありますね(^_^;)
不発弾処理
私の知り合いもひとり、強制避難区域に住んでいて、朝からトコトコ多摩川を越えて、親戚の家に避難したとか。京王線も区間運休、甲州街道も通行止めになり、かなり大がかりな交通規制が入りました。街にはパトロールしている警察官以外はひとっこひとりいなくなったとか(強制避難だものねぇ)。爆発するとそんなに威力のある爆弾なの?とかえって驚いたり。
しかし、考えてみれば、落ちてから63年ですか? 爆弾の上で生まれた人がもう還暦を過ぎている……。ずっと不発弾の上で暮らしてきたのかと思うとなんだかお尻がむずむずする感じですよね(笑) 駅の再開発か何かの折に見つかったらしいですけど。
実際には自衛隊様の優秀な技術により、予定よりうんと早く11時半ぐらいには撤去作業が完了し、お昼過ぎには京王線も動き、甲州街道も通れるようになったようです。事なきを得たってところですが、他にもないとは限りませんよね? まあ、刺激しなければ爆発しないから、今日の今日まで埋まっていたのだろうけど……。地雷というわけではないけれど、気持ちのいい話ではありません。
京王線では各駅で、電車の中で、アナウンスで告知していたので、周辺の人はたぶんずいぶん前から覚悟はしていて(?)、南側の人は小田急線に、北側の人は中央線に出れば不自由はないと思っていたけれど、日曜日だから普段は京王線を利用しない人が知らなくてこの運休に遭遇したかもしれませんね。休日に高尾山行こうと思ったら電車が走ってない!とか。理由が理由だけに驚いたでしょうね(笑)