願成寺(甲斐霊場第77番)
こちらも曹洞宗、ご本尊は阿弥陀如来です。広い境内を持つお寺ですが、しっかり戸締りがしてありシーンと静まり返っています。 片隅に仏足跡があり、足跡に沿ってお賽銭が置かれています。別に線に沿っておかなくても……と思うのですが、これは気分の問題なのでしょうか。
願成寺には、甲斐武田家の初代当主信義の墓地があります。信義が没したのは鎌倉初期、12世紀末ぐらいですが、このお墓は角礫凝灰岩の大五輪塔、方形の地輪、球状の水輪、半球状の風輪、最上部は風空輪というものだそうで、典型的な鎌倉時代初期の塔形だそうです。10世紀近く風雪にさらされ、ちょっとくたびれた感じではありますが、よく保存されています。
願成寺は771(宝亀2)年に開創された京都祇園寺の末寺で、信義が諸堂を整備したとき、京都から阿弥陀三尊を迎えて本尊としたそうです。16世紀末、織田勢の焼き討ちによって伽藍は焼失しましたが、仏像は焼失を免れ、現在は本堂左手にある平泉の中尊寺を模した保存庫に安置されています。事前に連絡すれば拝観可能だそうですが、私たちのような気まぐれお寺めぐりではそれもかなわず、ですね。阿弥陀如来坐像は漆箔で寄木造り、左脇侍は観音菩薩立像、右脇侍は勢至菩薩立像で、台座なども含めて鎌倉初期のままなのだとか。 重要文化財の指定を受けています。
このお寺に最初の山門が建立されたのは1662(寛文2)年だそうですが、幕末も近い1864(元冶元)年、暴風雨で倒壊。ずっと再建ができずにいたものを1990(平成2)年になってやっと念願がかなったのだとか。それというのも山門に掲げられた山号額が後白河法皇から下賜された貴重なものだから。それは掲げたいですよね、やっぱり。欅の一枚板で「鳳凰山」の文字が力強く書かれ、市指定の文化財になっています。
寒くなく、暑すぎもせず、お寺参りにも心地よい季節になりました。雨の季節になる前に、せっせと歩き回らなければ!
常光寺(甲斐霊場第76番)
どこまでクルマで入っていっていいのかなと思いつつ、通れる道がある限り入っていってしまうと美しく手入れされた庭の脇を通過しました。この庭が常光寺の庭。「ミニ鳳凰」と呼ばれる庭園だそうです。鳳凰山をもして造園されたとか。鳳凰山は韮崎市と南アルプス市の境にある山並みで、地蔵ケ岳、観音岳、薬師岳の総称です。
大きな鯉が優雅に泳ぎ、ツツジがたくさん植えられています。それほど大きな庭ではありませんが、ツツジが咲いているときならばさぞや美しい風景なのではと思います。青葉のいま頃ももちろん悪くない風情です。
曹洞宗のお寺でご本尊は阿弥陀如来。本堂に鍵は掛けられておらず、お参りすることができました。が、呼べど叫べど、どなたもいらっしゃらないようです。無用心といえば無用心ですが、そういうのもお寺さんらしい感じではありませんか。
もともとは青木十郎太郎常光が開基した真言宗のお寺で、その後、青木尾張守信定が十郎太郎常光の菩提をとむらうために中興、曹洞宗のお寺として開山し、いまに至っています。
青木家の武威が隆盛することを願って「武隆山」と号したというこの扁額のかかる山門は、400年ぐらい前の建築といわれます。派手さはありませんが、どっしりとした造りです。山門を入ると、たくさんのお地蔵さまが並んでいます。 お寺の背後にそびえる地蔵岳は子授け地蔵の山。そこで山を登る体力のない人は、このお寺のお地蔵さまに安産、子育てのお願いをするようになったのだそうです。だからでしょうか、たくさんのお地蔵さまが大切にされているようです。
夕やけだんだん
谷中商店街の入口に「夕やけだんだん」という階段があります。ここからきれいな夕やけが見えるのでしょうか。何の変哲もないコンクリートの階段なのだけれど、このネーミングのおかげで、なんとも風情のある場所のように感じられるから不思議です。
この「だんだん」を降りていくと、商店街。こちらも昔はどこででも見られたような風景でしょう、両側に商店が並ぶ狭い道です。ここにいろいろなところから観光客?がやってきて雰囲気を楽しんでいるんですね。美味しいと評判になっているらしい店の前にはコロッケを求める人の行列ができていました。「谷中銀座」という名称も昔っぽくていいです。
その商店街散歩をした後は墓地散歩。どちらも「散歩」という言葉には不似合いな感じですが、なかなかこれが楽しいのです。谷中墓地の真ん中には徳川の墓所もあります。ここに裏切り者(笑)の慶喜のお墓があるというので、行ってみました。
丸くこんもりした墓石は、「水戸は神道だから」なのだそうです。それを教えてくれたのは墓所の前に陣取っていた不思議なおじさん。慶喜のお墓を見に来る人を次々と捕まえては、お墓の形の説明や、徳川墓所に眠っている将軍や正室や側室の話などをしてくれます。「してくれます」っていうか、最初は知らないことを教えていただいてありがたいのですが、しまいには「捕まっちゃった」という感じに(笑) はやく誰か他の人が来て、選手交代してくれないかしらん、と。自主的観光ボランティアなのでしょうか、徳川オタク?
やっと解放されて、またまたのんびり墓地散歩をしながら寛永寺に。こんなにちっちゃくなっちゃって……という感じですね。もっと立派な彰義隊の石碑でもあるのかなぁと思っていたのだけれど、ま、しょうがない、戦争に負けちゃったんだもんね。
疲れた足を引きずって上野公園にたどり着けば、パンダがいなくても動物園は親子連れでにぎわっていました。高いお金払ってパンダをお借りして、さらにお育てすることもあるまいという石原くんの言い分にも一理ありますね(^_^;)
不発弾処理
私の知り合いもひとり、強制避難区域に住んでいて、朝からトコトコ多摩川を越えて、親戚の家に避難したとか。京王線も区間運休、甲州街道も通行止めになり、かなり大がかりな交通規制が入りました。街にはパトロールしている警察官以外はひとっこひとりいなくなったとか(強制避難だものねぇ)。爆発するとそんなに威力のある爆弾なの?とかえって驚いたり。
しかし、考えてみれば、落ちてから63年ですか? 爆弾の上で生まれた人がもう還暦を過ぎている……。ずっと不発弾の上で暮らしてきたのかと思うとなんだかお尻がむずむずする感じですよね(笑) 駅の再開発か何かの折に見つかったらしいですけど。
実際には自衛隊様の優秀な技術により、予定よりうんと早く11時半ぐらいには撤去作業が完了し、お昼過ぎには京王線も動き、甲州街道も通れるようになったようです。事なきを得たってところですが、他にもないとは限りませんよね? まあ、刺激しなければ爆発しないから、今日の今日まで埋まっていたのだろうけど……。地雷というわけではないけれど、気持ちのいい話ではありません。
京王線では各駅で、電車の中で、アナウンスで告知していたので、周辺の人はたぶんずいぶん前から覚悟はしていて(?)、南側の人は小田急線に、北側の人は中央線に出れば不自由はないと思っていたけれど、日曜日だから普段は京王線を利用しない人が知らなくてこの運休に遭遇したかもしれませんね。休日に高尾山行こうと思ったら電車が走ってない!とか。理由が理由だけに驚いたでしょうね(笑)
谷根千あたりを
今日はモモタロウに手を引かれて、根津、千駄木、谷中、そして上野あたりをフラフラ歩きしてきました。出がけにふと気がついて万歩計を装着。全歩数23,488歩。いやぁ、よく歩きましたねぇ。最近ちょっと閉じこもり気味かなと思うと、それを察してか、連れ出してくれる友だちがいるのはありがたいことです。
まずは千代田線の根津駅で待ち合わせ、根津神社へ行ってみました。ちょうど名物のツツジが終わっちゃっていて、咲いていたらさぞや壮観だろうなぁというお庭を見物。どこかへ行くときに必ずやストライクな時期をはずすという、相変わらずコントロールの悪い散歩人ですが、緑の季節にはそれなりの美しさもあります。
犬公方で有名な五代将軍家綱が、六代家宣のために建てた神社です。しかし、家宣の臍の緒を埋めた塚って……、そんなもの、ありがたいんですかね?(笑) 社殿ではちょうど結婚式が行われていました。なかなか美男美女のカップルで、普通の振袖の花嫁です。少人数でシンプルに式を挙げた様子。こういう結婚式も素敵です。
それから千駄木に向かって歩き始めると、駄菓子屋さんとか、和食器の小さなお店などがあり、気になる、気になる。とくにお煎餅や金太郎飴、駄菓子なんかは、「買って帰りたいよー」と思いました。しかしまあ、始まったばかりの道中で、しかもデブのもと! ぐっとこらえて歩きます。
千駄木に「乃池」という穴子寿司で有名なお店があり、一度、行ってみたいなぁと思っていました。で、ちょっと探してみましたが、今日はお休み? 11時を回っているのに閉まっていました。お品書きを見れば穴子寿司2,500円。うーん、やっていてもランチに2,500円はねぇ。この前、清水の舞台から飛び降りて高いランチをいただいた後遺症で、まだ骨折しているような経済状態ですからねぇ(笑)
さて、あっちかな、こっちかなと行き当たりばったり歩いていくと山岡鉄舟のお墓のあるお寺(全生庵)の前を通りかかりました。ここもちょろっとのぞいてみましょう。ここらへんは本当にお寺がいっぱいあります。路地を曲がればお寺、また曲がればお寺、という感じです。
行ったり来たりしながら、、やがて谷中墓地に到着。ここにはさまざまな有名人のお墓があります。といっても、わざわざ探してみるほど興味深い人もなく……。私が記憶していたのは高橋お傳だけだったのですが、我ながらなんで高橋お傳?って感じ。長谷川一夫のお墓などは、新しく建て直したらしく、ピカピカです。初老のご婦人がふたり、「母がファンだったのよね」などと言いながらお参りしてました。初老の方の母上ってことは、昭和初期ぐらいのスターだったのでしょうか。もちろん、私も名前ぐらいは知っています。
さて、本気でお腹がすいた〜! 谷中銀座に行こう! という話は、また後日。