再び、トルコ料理
末広亭の並びの「ボスポラス・ハサン」というお店。ハサンは、店長のお名前だそうです。渋谷の「アンカラ」がキリム(平織物)のイメージなら、こちらはイズニック・タイルのイメージ。「辛い野菜の料理」と「ひき肉のピザ」と「ドネルケバブ」を注文しました。
本当はいろいろと珍しい物も頼んでみたかったのですが、実はあまりお腹がすいていなかったという悲しい事情がありました(笑) お腹はすいていないのだけれど、今食べておかないと後で食べる時間がない……なんていうこと、ありますよね。それです。
それでもおいしかったです。お店を出て路地を曲がると、そこには「イスタンブール」という名前のやはりトルコ料理屋さんを発見。次はこちらを試してみよう!(笑)
途中で止まっていたトルコ紀行、やっと書き上げました。とはいえ、時間がたってしまったので勢いはなくなったかな? それでも、一応、完結しておかないと気持ちが悪いので(^_^;) あまりに長すぎて、うんざりされてしまっているらしく、どなたからも感想はいただけていませんが(笑)
清泰寺(甲斐霊場第73番)
このお寺が誕生したのは、平安時代の終わりごろ、1127(大治2)年といわれています。「清泰」という名前は「清和源氏が安泰であるように」という意味があるそうで、甲斐源氏との縁が深かったことをにおわせています。もとの建物は14世紀末から15世紀初頭に焼失。再興された建築も18世紀初頭の火災で焼け落ちたとのこと。唯一、残っているのが茅葺の総門だそうです。屋根には苔がむしており、歴史を感じさせます。
お留守のようなので、勝手にお参りさせてもらいました。境内には石造も多く、歴代の住職さんのお墓もずらりと並んでいる。あまりの数の多さに、一代25年として……、なんて指で数えてしまったり。本堂前には和尚がこの石に座って悪龍を退治したと伝えられる「座禅石」などもあります。ここで座禅を組むのは、痛くて、冷たくて、大変な修行だったのでしょう。
そろそろ帰ろうと支度をしているところに住職さんがお帰りになりました。そこで運良くご朱印をいただくことができました。やっぱり、日頃の行いがいいからね!(笑)
清光寺(甲斐霊場第72番)
武田氏の始祖、甲斐源氏の逸見源太清光が1151(仁平元)年に創建したのがこのお寺。はじめは信立寺といっていましたが、清光が亡くなった後、清光の菩提寺となって清光寺に改められました。逸見源太清光の子信義が武田庄の庄官となり、武田太郎と名乗ったのが武田氏のはじまり。信玄の先祖に当たる方ですね。
創設当時は天台宗だったそうですが、1475(文明7)年に曹洞宗に改宗しています。お寺の形はそのままで宗派が変わるというのは、私には意外な感じがしていましたが、このお寺参りをしていてけっこう多いことに気づきました。その場合、信徒さんもそっくりお宗旨替えするんでしょうかね? なんだか、拝むものはなんでもいいよっていう感じの日本人の宗教観?(笑)
清光の墓碑は境内から小高いところに上がったところにあります。山を眺めるのが好きだった方のようですが、ここからも八ヶ岳など周囲の山々が見渡せます。
立派な本堂の前には樹齢250年といわれるイトザクラがあります。満開は4月上旬で、花見にたくさんの人が訪れるそうです。残念ながら、もうこの季節は葉桜に。隣にある桜も、もうそろそろ終わり。風もないのに花びらがはらはらと舞い落ちてきます。この舞い落ちる花びらがとても大きくて驚きました。植物はまったくわからないのですが、花びらが大きい種類の桜があるのでしょうか。
鐘楼の後ろに芥川龍之介の句碑があります。1923(大正12)年8月に龍之介がこのお寺を訪れた記念のようです。 8月では龍之介も見事なイトザクラの開花は見損なったわけですねぇ。
小笠原伯爵邸
小学校時代の友人にランチに誘ってもらって、市谷河田町にある「小笠原伯爵邸」というお店に行ってきました。ミシュラン☆のお店で、私は知りませんでしたが、有名な店だとか。予約をしてくれたとのことで、よく聞いてみると、ランチで7,000円! 小学校を卒業してン十年たつと、いいとこの奥様になった方々とは生活水準が違うとシミジミ思いましたが、「うん、いいよ」と言ってしまった手前、0が一つ多いからやめるとも言えず……(笑)
レストランで待ち合わせ。表に看板が出ていないので、果たしてここでいいのかとキョロキョロしてしまい、約束の時間に数分、遅れてしまいました。料理もおいしかったのですが、素晴らしい建物です。名前の通り、もと小倉城主だった小笠原伯爵の邸宅だった建物で、1927(昭和2)年に小倉藩の下屋敷だったところに建てられたものだそうです。このようなスパニッシュ様式は、当時、流行の最先端の建築だったとか。
レストランになる前にはいろいろな変遷があって、戦後アメリカ軍に接収され、返還されてからは東京都の福祉施設として使用され、老朽化したため、1975(昭和50)年以降は廃屋状態。取り壊されそうになったところを、日本建築学会などから残すようにという要望があり、取り壊しは免れたものの、しばらくは相変わらずの立ち腐れ状態だったものだそうです。
2000年に東京都が民間に貸し出すことを決定し、このレストランが修復工事をしたのち、2002年にオープンしたとのこと。修復に2年がかかり、総修復費用は5億円だとか。そういう話を聞くと、そりゃあ、ランチが7,000円は高い!と文句は言えませんね(^_^;) もちろん料理もおいしいし、器も盛りつけも素敵、サービスも文句なしですけどね。手元に置かれているメニューのデザインもひとりひとり違うのがおしゃれです。
食事が終わってから、建物をぐるっと案内していただきました。シガー・ルームというのは文字通り、喫煙室。建てられたときから喫煙室だったそうで、ここだけはスパニッシュ様式の中でちょっとイメージが違うイスラーム風。当時、アラブのほうから葉巻などが入ってきていたので、このようなイメージで作られたのだそうです。
外から見ると、こんな感じ。
カフェとして使われているのは、まさにスパニッシュ様式の真髄ともいえるパティオ。お天気のいい日には、ここでお茶だけというのもいいかもしれません。階段を上がって屋上へでるとここで結婚式などが行われるお庭などが眺められます。
別棟は、結婚式のためのドレッシングルームや、個室などがあります。ここはもとは召使部屋だったそうで、天井がやや低く、一つ一つの部屋も小さめですが、壁の厚さが30センチもあって、静かなひとときが楽しめそうです。
上はトイレとして使われていた部屋で、当時の灯りがそのまま残っています。個室には絵画がいくつか壁に掛けられていて、ゆったりと食事ができそう。
天井には遠近法が使われているという珍しいステンドグラス。窓のステンドグラスはパステル調で、アメリカ風なのだそうです。
海岸寺(甲斐霊場第71番)
海岸寺はかなりな山の中にありました。他の車はほとんど見かけず、そういうクルマでそういう風に走ればかなりおもしろそうなワインディングロード(^_^;) しかし、この山の中でなぜ海岸? 経文の中にある「観世音の本所、補陀落山は天竺南海中にあり」の補陀落山を別名「海岸孤絶山」というところから海岸寺と名づけられたとか。そういえば、四国にも海岸寺というお寺があるようですね。
本当にこんなところにお寺がるのかしらと不安になってくる頃、道路の左端に「海岸寺石段入口」の手書き風看板がありました。石段はクルマでは登れないけど……と思いながら、そろそろと小道に侵入。石段はありましたが、クルマを停めるスペースどころか、走るスペースも……。見上げるとお寺ははるか上のほうにある模様。この道の先に停めるスペースがあるかも、と、両脇を木の枝でこすられながら前進すると、あれ? もとの道路に出てしまいました。
イチかバチか道路をさらに上がって行くと、2カーブ曲がった先に、お寺に入れそうな入口と、数台のクルマが停められるスペースがありました。そして、「この寺は 観光のための 開放は いたしておりません」の看板が……。お参りなら、いいんだよね……。
なだらかな坂道を登って、門をくぐり、境内に入っていくとたくさんの石仏が迎えてくれます。高遠の石仏師守屋貞治が十余年の歳月を費やして彫り上げたといわれる石仏で、その数は100体以上あるといいます。西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所の観音像と延命地蔵尊だそうですが、一体として同じものがないとか。壮観です。
庫裏を訪ねてご朱印をお願いすると穏やかそうな住職が対応してくださり、「観音堂もお参りしてくださいましたか?」と。やっぱり、お参りならよかったんですね! 境内には座禅堂のようなものや静かに座って時間を過ごせるようなベンチもたくさん用意されていて、「観光はダメ」というのは、「ただ見て歩くのではなくて、心静かに人生を考えなさいよ」という意味なのでありました。
何組かの参詣の方々と出会い、大きな観光寺は別として、これまで訪ね歩いた甲斐のお寺さんの中で、実のところ、いちばん参詣の人が多かったのではないかと思います。確かに、悩みごとがあれば、ここでゆっくり考えるのがいいかもと思わせる風情があります。
本堂は1603(慶長8)年に建立され、1671(寛文11)年に再建されたもの。本堂の左手後ろの石段上にある観音堂は大悲閣と呼ばれ、やはり1603年に建立され、1810(文化7)年に名工といわれた立川和四郎富昌が再建築したものだそうです。正面のアワとウズラの彫刻は有名。他にも六地蔵板碑など貴重なものがたくさんあり、「観光」もしたくなります(^_^;)
ヤマツツジの季節でもあり、境内や石段が彩られていました。