祇園でイタリアン
町家を改造した店に行ってみたいというリクエストに応えて、京都っ子が連れて行ってくれたのが「スコルピオーネ」というイタリアンのお店でした。本当に最低限、改造したという感じで、ほとんど町家のまんまというお店でした。この家は築150年ほどになるそうです。
入り口はまるで民家の中に入っていくようです。まさに「うなぎの寝床!」。内部も一部はお座敷のままで、予約なしだった私たちがぎりぎり入れてもらったところは、普通の家の応接コーナー風。すっぽりソファにはまって、おいしいランチをいただきました。
ランチは器も盛りつけもきれい! どれもおいしくいただきましたが、とくにパスタはすっごくおいしかったです。昼でもちょっと薄暗いカウンターは、夜は素敵なバーになるのではないでしょうか。
ランチの後は祇園をブラブラ。なじみのある風景です。アマチュアの写真クラブのような方々が舞妓さんの撮影会をしていました。カメラを向けるとシッシッと追い払われました(-_-;) いや、舞妓さんじゃなくて、そのあなた方の占領している橋が撮りたかったんですけど。
旅行者に舞妓さんの衣装を着せてくれるサービスもあるようですね。若いお嬢さんが舞妓姿になって、写真を撮ってもらっているほほえましい風景も見かけました。この辺りには、「今度はここに食べにきたい!」と思うような店がいっぱいあります。
清涼寺
山号を五台山といい、「嵯峨釈迦堂」の名で知られているそうです。浄土宗の寺院です。嵯峨野を歩く人は、このお寺から歩き始める人が多いようですが、私は逆コースでごめんなさい(笑)
国宝のご本尊「釈迦如来」は中国でつくられたもので、お釈迦様の生身の像として体内には絹で作られた五臓六腑が収められているのだそうです。中国では千年以上前から解剖学的に身体の構造がわかっていたということで、ずいぶん科学的な仏像でありますね。
本堂の横にある石碑は豊臣秀頼の首塚で、1980(昭和55)年に大阪城の三の丸跡地から出土した秀頼の首を祀ったものだそうです。秀頼の首が見つかったのはそんな最近のことだったんですね。250年以上も土の中に眠っていたわけです。よく秀頼の首だとわかったなぁ〜、そういう科学的な力にも驚きです。
どこからか読経の声が聞こえてきます。一切経蔵というのがあって、ここを一周すればお釈迦様が書いたお経の一切を読んだのと同じだけの功徳があるそうです。近くまで行ってみたら、読経の声はテープのようで、さらに一周するためには料金がかかります。なんだかなぁ……、功徳を得るチャンスは逃すことにしました。
他にも境内には太子堂やら狂言堂やらたくさんの建物がありました。ここの湯豆腐も有名のようですね。嵯峨野の他の寺院に比べるとなんだか普通の大きいお寺という感じで、単に「ふ〜ん」になっちゃったのでした。
化野念仏寺
幻想的な千灯供養で有名な化野念仏寺へ行きました。「あだしの」って、なんとなく心をひかれる響きがあります。「悲しみの地、はかない処」という意味だそうです。
ここは811(弘仁2)年、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされています。のちに法然が念仏道場を開き、念仏寺と呼ばれるようになりました。浄土宗のお寺です。
本堂は1712(正徳2)年に寂道により再建されたそうですが、それより何より境内のおびただしい数の石仏に圧倒されます。約8000体あるのだとか。1903(明治36)年頃に、化野にある多くの無縁仏を掘り起こして集めたものだそうです。正面には「撮影禁止」って書いてあったのですが、そのときにはもう、脇のほうから写真を撮っちゃった後でした。何で撮影禁止なんでしょう? 変なモノが写っちゃったりすることがあるとか?
境内には水子地蔵尊もあり、地蔵様の縁日には水子供養が行われています。ここも撮影禁止。ここも撮っちゃった、すでに(-_-;) でも、いずこも不思議なものは写っていませんでしたよ。
仏舎利もなんだか不思議な建築です。なんといいますか、日本的ではない感じとでもいいましょうか。丸石の「虫塚」もあります。小さな命も大切にしましょうということかな。でも、やっぱり私は虫は苦手です(^_^;)
墓地のほうへ上っていく道には、ここにも見事な竹林がありました。上りきると六面六体地蔵があります。「天道」のお地蔵様から時計回りに水をかけながら回っていくのだそうです。お参りはしましたが、書かれている「呪文」は唱えなかったので、ご利益はないかも。お地蔵さんの前には広大な墓地があります。山に囲まれた景色のいい広い墓所で、永遠の眠りっていうイメージにぴったり、かな?
祇王寺
お寺というより普通の民家のように見える祇王寺は、それもそのはず、もともと民家だったのですね。明治初年に廃寺となって、1895(明治28)年、元の京都府知事が別荘の緋と一棟を寄付したのが、いまの祇王寺なのだそうです。もともとの祇王寺にあった墓と木像が大覚寺によって保管されていたとか。
庭も大きなものではありませんが、苔が見事です。見本が出ているだけで20種類ぐらいの苔がありました。素人には似たように見えるので、どの苔がどの辺にあるのかはよくわかりませんが、庭一面を緑に染めて、美しいものでした。木々が葉を落としている中で、鮮やかに色彩を放っています。
ここは平家物語に出てくる「祇王」という白拍子にちなんだ尼寺です。平清盛に愛されていた人ですが、若きライバルにその座を追われ、母と妹とともに出家して祇王寺に入ったといわれます。それを知った若きライバル、仏御前も後を追って出家し、四人がこの寺の尼になったというお話。清盛のデリカシーのなさ(笑)と、白拍子たちの悲しみ涙を誘わずにはいられないという諸行無常の響きあり、です。ベンベン。
隣に壇林寺という大きなお寺があり、扁額に「蓮華精舎」と書いてありました。「祇園精舎」じゃなくて。こちらのお庭も拝見しようかと思いましたが、大勢さんが門前で楽しげに会議をしていらしたので、遠慮しました(-_-;)
落柿舎
嵯峨野といえば、俳句をやる人もやらない人も、落柿舎の名前には聞き覚えがあるのではないでしょうか。松尾芭蕉の弟子、向井去来の草庵だったところだとか。私は当然、やらない人ですが、松尾芭蕉が落柿舎を訪れて句を残し、また嵯峨日記を記したのもここらしいというウワサは聞いたことがあります(笑)
落柿舎のいわれは、商人が庭に実った40本の柿の買い入れを決めて代金を置いて帰った日、その夜の嵐で柿の実が全て落ちてしまったことから生まれたといいます。庭にある句碑には「柿ぬしや木ずゑは近きあらしやま」と、そのできごとを詠んだ句が。それ以外にもたくさんの句碑が置かれていて、こじんまりした庭を飾っています。
庵には「一句ひねってください」の張り紙があり、投句箱も用意されていましたが、すみません、そんな教養はありません(-_-;) ここに投句された句の中で秀逸なものは落柿舎保存会のだしている季刊誌「落柿舎」に掲載されています。
とはいえ、もともの落柿舎は1770(明和7)年にはすでになく、今の落柿舎は1895(明治28)年に再建された建物だそうです。庭にまだ柿の実がわずかに残っていました(作り物じゃないよね?)。
そして門前に広い畑が残っており、ここにはいかにも「嵯峨野らしい」というイメージの景観が広がります。