化野念仏寺
幻想的な千灯供養で有名な化野念仏寺へ行きました。「あだしの」って、なんとなく心をひかれる響きがあります。「悲しみの地、はかない処」という意味だそうです。
ここは811(弘仁2)年、空海が五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのに始まるとされています。のちに法然が念仏道場を開き、念仏寺と呼ばれるようになりました。浄土宗のお寺です。
本堂は1712(正徳2)年に寂道により再建されたそうですが、それより何より境内のおびただしい数の石仏に圧倒されます。約8000体あるのだとか。1903(明治36)年頃に、化野にある多くの無縁仏を掘り起こして集めたものだそうです。正面には「撮影禁止」って書いてあったのですが、そのときにはもう、脇のほうから写真を撮っちゃった後でした。何で撮影禁止なんでしょう? 変なモノが写っちゃったりすることがあるとか?
境内には水子地蔵尊もあり、地蔵様の縁日には水子供養が行われています。ここも撮影禁止。ここも撮っちゃった、すでに(-_-;) でも、いずこも不思議なものは写っていませんでしたよ。
仏舎利もなんだか不思議な建築です。なんといいますか、日本的ではない感じとでもいいましょうか。丸石の「虫塚」もあります。小さな命も大切にしましょうということかな。でも、やっぱり私は虫は苦手です(^_^;)
墓地のほうへ上っていく道には、ここにも見事な竹林がありました。上りきると六面六体地蔵があります。「天道」のお地蔵様から時計回りに水をかけながら回っていくのだそうです。お参りはしましたが、書かれている「呪文」は唱えなかったので、ご利益はないかも。お地蔵さんの前には広大な墓地があります。山に囲まれた景色のいい広い墓所で、永遠の眠りっていうイメージにぴったり、かな?
祇王寺
お寺というより普通の民家のように見える祇王寺は、それもそのはず、もともと民家だったのですね。明治初年に廃寺となって、1895(明治28)年、元の京都府知事が別荘の緋と一棟を寄付したのが、いまの祇王寺なのだそうです。もともとの祇王寺にあった墓と木像が大覚寺によって保管されていたとか。
庭も大きなものではありませんが、苔が見事です。見本が出ているだけで20種類ぐらいの苔がありました。素人には似たように見えるので、どの苔がどの辺にあるのかはよくわかりませんが、庭一面を緑に染めて、美しいものでした。木々が葉を落としている中で、鮮やかに色彩を放っています。
ここは平家物語に出てくる「祇王」という白拍子にちなんだ尼寺です。平清盛に愛されていた人ですが、若きライバルにその座を追われ、母と妹とともに出家して祇王寺に入ったといわれます。それを知った若きライバル、仏御前も後を追って出家し、四人がこの寺の尼になったというお話。清盛のデリカシーのなさ(笑)と、白拍子たちの悲しみ涙を誘わずにはいられないという諸行無常の響きあり、です。ベンベン。
隣に壇林寺という大きなお寺があり、扁額に「蓮華精舎」と書いてありました。「祇園精舎」じゃなくて。こちらのお庭も拝見しようかと思いましたが、大勢さんが門前で楽しげに会議をしていらしたので、遠慮しました(-_-;)
落柿舎
嵯峨野といえば、俳句をやる人もやらない人も、落柿舎の名前には聞き覚えがあるのではないでしょうか。松尾芭蕉の弟子、向井去来の草庵だったところだとか。私は当然、やらない人ですが、松尾芭蕉が落柿舎を訪れて句を残し、また嵯峨日記を記したのもここらしいというウワサは聞いたことがあります(笑)
落柿舎のいわれは、商人が庭に実った40本の柿の買い入れを決めて代金を置いて帰った日、その夜の嵐で柿の実が全て落ちてしまったことから生まれたといいます。庭にある句碑には「柿ぬしや木ずゑは近きあらしやま」と、そのできごとを詠んだ句が。それ以外にもたくさんの句碑が置かれていて、こじんまりした庭を飾っています。
庵には「一句ひねってください」の張り紙があり、投句箱も用意されていましたが、すみません、そんな教養はありません(-_-;) ここに投句された句の中で秀逸なものは落柿舎保存会のだしている季刊誌「落柿舎」に掲載されています。
とはいえ、もともの落柿舎は1770(明和7)年にはすでになく、今の落柿舎は1895(明治28)年に再建された建物だそうです。庭にまだ柿の実がわずかに残っていました(作り物じゃないよね?)。
そして門前に広い畑が残っており、ここにはいかにも「嵯峨野らしい」というイメージの景観が広がります。
二尊院
二尊院は、釈迦如来と阿弥陀如来の双方を祀っていることからこう呼ばれているそうです。嵯峨野でもっとも古いお寺なのだとか。ホントにまあ、広いお寺ですねぇ。桜でも紅葉でも屈指のお寺らしいのですが、真冬もまた静かで落ち着いた雰囲気に魅力があります。
山門をくぐると、緩やかにのぼる広い参道がのびています。「桜の馬場」とか「紅葉の馬場」などと呼ばれているそうですが、いまは「冬枯れの馬場」。黙々と落ち葉の掃除をしている人がいました。「宮内庁」って書いてある軽トラックをお見かけしましたが?
石段を上がると、「黒門」という門があり、どこが黒? と思えば、裏側から見ると確かに黒に塗られています。表は風雪で色が落ちてしまったのでしょう。門をくぐると寝殿造りの立派な本堂が見えます。表からぼーっと眺めていたら、「どうぞおあがりください」と僧侶の方に声をかけていただきました。けど、先客が何人かいらっしゃったようなので、とりあえずはお庭のほうへ。
弁天堂を通り過ぎると「しあわせの鐘」がありました。本堂の前でどこからか鐘の音が聞こえていたのはこれだったのですね。誰でも自由に撞いていいようです。ゆっくりと三つ撞くのだとか。私は眺めただけで撞きませんでしたが、けっして、不幸なわけでも幸せになりたくないというわけではありません(笑) なんだか、静か過ぎて音をたてるのがはばかられるような……。
その横に長〜い階段があります。ちょっと登るのを躊躇するような角度と長さですが、この上に法然上人の廟があるらしいので、気合を入れて登っていくことにしました。この上のほうというのか、奥のほうには訪れる人が少ないそうですが、それもそうかもという高さと距離です。
法然上人の廟の左の奥には藤原定家の「時雨亭跡」といわれる場所があると書かれていました。ここにも? 確か常寂光寺も……? 特定できずに、他にもいくつかあるそうです「時雨亭跡」といわれる場所は。
廟から右のほうへ歩いていくと古いお墓がたくさんあります。朝廷とか公家とかいう時代のことはまったく知らないのですが、案外、小さいお墓です。天皇のお墓より、三條家とか鷹司家とかのお墓所のほうが大きいようですねぇ。公家のほうがお金持ちだったのかな?(笑)
りっぱな石が置かれているのはやっぱり角倉了以はじめ角倉家です。どれも聞いたことあるなぁ〜くらいの名前なのですが、お墓所もここまで古くなると墓地というより石碑という感じ。土御門、嵯峨、亀山天の三帝が分骨されているという三帝陵は鎌倉時代初期のもので重要美術品となっているそうです。
敷き石や木の根が張り出しているお墓所を歩いていたら、ひっかっかって軽く捻挫してしまいました〜。子どもの頃、「お墓所で怪我をすると一生治らないんだよ」と脅かされたことがあります。つまり、お墓でふざけたりするな!という戒めなのでしょうが、静かに歩いていてひねった捻挫は……、治ってくれますよね(^_^;)
常寂光寺
大河内山荘の庭園の下ぐらいに当たるところに「御髪神社」という小さな社がありました。日本で唯一の髪の神社だそうです。美容師さんや理容師さんがよく訪れるのだとか。きれいになりたい人はお参りするといいそうです。御髪神社の前には小倉池がありました。水は濁っているのですが、山を映した鏡池になっていてなかなか風情があります。
池を通り抜けるとそこは常寂光寺。紅葉が見事なことで有名ですが、それは大幅に手遅れ。でも、寒椿もきれいだと聞いていたので、こちらはどうかなと思ったらフライング。山茶花も終わってしまったばかりで、ちょっとうら寂しい風景です。
やはり小倉山の中腹の斜面にあるので、境内から嵯峨野を一望できます。重要文化財の多宝塔の上から眼下に広がる街、連なる山々を堪能しました。平安時代に藤原定家の山荘「時雨亭」があったところだそうですが、やっぱり平安貴族は風流ですね。
常寂光寺は16世紀末に日モニいう日蓮宗の上人によって開かれたのですが、土地は角倉了以が寄付をしたものだとか。戦国時代の京都の豪商、と教科書で習ったような気がしますが、それにしてもスケールの大きな金持ちだったのでしょう。堂塔伽藍は小早川秀秋などの大名が寄進したそうです。
藁葺きの仁王門は南北朝時代の建築で本圀寺から移築されたもの、本堂は伏見城の客殿を移築したもの。500年前、600年前のものが普通にあるなんて、やっぱり京都ってすごいですよね。とはいえ、そこら辺の日本史は頭が空白。わけがわかなくても、風景だけを楽しみ、深くは考えないことにしました(笑)