広厳院(甲斐霊場第35番)
いまでは、またしても、「うわぁ〜、通れるのかな?」という道の奥にあります。入り口石垣のようなもので道幅規制をしている感じで、車幅感覚を問われますねぇ。ゆっくり、いっぱいいっぱいで入っていけば、広々とした境内が開けました。敷地内に大きな幼稚園もあります。御朱印をいただくために庫裏を訪ねると、年配の女性が対応してくださり、本堂もわざわざ開けてくださいました。住職のお母さまだそうです。
本堂の建物はとりとめのない感じなのですが、中は広々としています。それもそのはず、かつては甲府市の大泉寺(第59番)とともに甲斐曹洞宗830寺をまとめるお寺で、80人以上の僧が修行していたのだそうです。敷地が2万6千坪、境内の周囲が1里24町(約4.9キロ)あったとか。また、石和町中川から広厳院までの参道は、中山街道と呼ばれているくらいだったそうな。
それほど大きなお寺も、いまは時代に取り残された感じのたたずまい。お母さまいわく「息子は幼稚園のほうばかり一生懸命で……。お寺のほうはどうもねぇ」。最近、太鼓は修理したそうですが、この大きな本堂を維持していくのはなかなか大変なようです。
見上げると本道の天井近くの梁に、江戸時代の駕籠が4台も下げられています。高い所にあるので、細かいところは見えませんが、貴重なものなのではないでしょうか。ただただ吊り下げられているのはもったいない感じ。梵鐘は、県の文化財に指定されているそうです。こういうお寺の維持管理、なんとかならないものかなぁと思います。幼稚園児の声がときどき響く以外は、妙に静かなお寺でありました。
川中島古戦場跡
長野インターを出て、長野市内へ向かう道を走るとすぐ右側に「川中島古戦場跡」という「観光スポット」があります。通るたびに何年も目にしていたのですが、行ったことはありませんでした。今回は大河ドラマもやっているし、急ぐ旅でもないので、ちょっとよっていくことにしました。しかし、大河ドラマの影響っていうのはすごいもんですよね。平日だというのにバスプールには大型観光バスが何台も停まっていました。
正式には八幡原史跡公園という名前です。確か5回ぐらい戦ったのではないかと思いますが、犀川と千曲川の中州で戦った、川を挟んで両軍が対峙などと漠然と考えていて……、河原の草野球グラウンドのようなものをイメージしていました。すみません、そんなに狭いわけがない! 3万人の兵が終結していたんですものねぇ(笑)
八幡原史跡公園は広くて、ちょうど紅葉がまっさかり。ここは、1561(永禄4)年に戦いが繰り広げられた場所だそうで、信玄と謙信の戦いの中でももっとも激しい戦いの舞台となったとのことです。山本勘助もここで戦死したそうですから、きっと近いうちにドラマにも登場するのでしょう。録画してあるのですが、まだ半分ぐらいしか見ていなくて、私の中ではまだ山本勘助は長尾影虎に会ったばかり(^_^;)
史跡公園の駐車場に最も近いあたりの松林の中には古くからの八幡社があります。八幡社のまん前には見事なご神木。境内には信玄と謙信の一騎討ちの像や三太刀七太刀之跡の碑、首塚などがあります。
いずれも作り物なので、地形や戦の雰囲気などは伝わってきませんが、囲いに旗指物などをたなびかせ、雰囲気作りをしている観光協会の努力は評価しましょう(笑)
八幡社を抜けると池がありました。周囲はたくさんの木々がさまざまなに色づき、これは素晴らしい風景です。ツツジの植え込みも真っ赤。付設されている建物では、風林火山の特別展示や講演会、長野の歴史の勉強会などが開かれているようです。素通りしました、すみませんm(_ _)m
土手らしきものに登ってみましたが、川ははるか彼方に流れているようで、この古戦場と川の間は、すでに街になっていました。奥のほうには広々とした芝生が開け、ちょっとしたピクニックによさそう。佐久間象山先生の銅像があたりを睥睨しています。ん、時代が違う? ああ、そういえば佐久間象山は松代の人だったような。長野が誇る賢人のひとりなんですね。
出口のところで、地元の農家の方々でしょうか、テントを張って野菜やリンゴの即売をしていました。太く長く見事な山芋に魅せられ……、大きいのは食べきれないので小さめのを購入しました。ついでに豆も。なんだか、隣でリンゴやらなにやら、大量に買い物をしている仲間もおりました(^_^;)
新蕎麦
<戸隠神社中社>
腹ごなしといってはナンですが、戸隠神社中社へお参り。戸隠神社は日本でも有数の神域といわれるところです。戸隠山の麓に、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社があります。全部あわせて戸隠神社。二千年以上の歴史をもつ神社です。
<階段合計92段!>
平安時代には修験道の道場として知られた霊場でした。神仏混淆によって戸隠山顕光寺となり、比叡山、高野山と共に栄えて、たくさんの宿坊を並んでいたそうです。いまでも中社付近には、講の方々が利用する宿坊がいくつも残っています。って、気取ってみましたが、ここは私のホームゲレンデ、定宿だったりして。かつては何十日も滞在し、荷物置きっぱなし〜みたいな宿坊があったりするわけです(^_^;)
<杉が合体した三本杉>
今日は中社にだけお参りしましたが、奥社や宝光社にも何度か足を運んでいます。「天の岩戸」の神話は有名ですが、戸隠神社のご祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々。壮麗な杉林を2キロ近く歩いてやっと到着する奥社のご祭神は天照大神が天の岩屋に隠れたとき、天の岩戸をこじ開けた天手力雄命。中社は神楽を創案し、岩戸を開くきっかけを作ったという天八意思兼命。宝光社のご祭神は思兼命子どもといわれる天表春命です。
100回以上来てる感じの戸隠なのに、手力雄命より古い神様らしい九頭龍大神を祀った九頭龍社と岩戸の前で舞った天鈿女命を祀った火之御子神社へは行ったことがないので、今回こそ!と思いましたが、お蕎麦に意識が集中し、また行きそびれました〜。天鈿女命はストリップの元祖なんていわれますね(笑)
<境内に湧水の清流>
中社をお参りしたあとは、鏡池に行ってみました。もう紅葉もすっかり終わり、初冬の気配です。紅葉の季節は、色とりどりの山がくっきり湖に映りこみ、とても美しいのですが、この時期だと新蕎麦がまだなんですよね(^_^;) さっきまでお日さまが出ていたのに、冷たい小雨が降り始め、温度計は5℃を示しています。さむっ!
コーヒーショップで温まり、湖畔にも立たず宝光社地区へ下り、宝光社にお参りもせず、またお蕎麦やさんに直行しました。わずか2時間足らずの間に、お蕎麦二枚目。今回は4人の小旅行でしたが、3人は完食。挫折1名。私はもちろん完食です。東京より一人前の量が多い感じで、けっこうずっしり胃にこたえてます。けど、本当においしんですよね、戸隠の蕎麦は。
称願寺(甲斐霊場第34番)
ナビがあっても行きつ戻りつの甲斐です。当然のことながら、連続Uターンおよび、人を見かければ聞きまくりという状態で、やっと辿り着いた竜玉山称願寺でした。でも、正面入り口がわからず、裏道に路注しての訪問とあいなりました。もう、収穫の終わったブドウ畑の中を走りまくる感じで、めったに人など歩いていないのが泣きどころです(笑)
ここに養護老人ホームがあります。もとは境内だったところでしょう。今日はよいお天気だったので、窓辺に布団がずらっと干してあります。けど、幸い?境内からは見えない位置でした。このホームは、称願寺開山700年を記念して、1975(昭和50年)に造られたそうです。ちょっと違和感がありましたが、お寺が地域社会に貢献するという意味では、趣旨は間違っていないような気もします。
境内にはいまは花も、ほとんど葉もつけていませんが、「ショウガンザクラ」と呼ばれる桜の大木があります。樹齢500年だそうです。この桜は一般の桜と違って、花と葉を一緒につけるそうです。桜の原種に近いものだとか。咲いているところを見たいですね。普通の桜より開花時期が遅いということなので、4月中旬頃でしょうか。
時宗のお寺で、ご本尊は阿弥陀如来。時宗の開祖一遍上人の弟子で、二祖ともいわれる真教上人の坐像を寺宝としていますが、この像の中から上人の舎利がでてきたそうです。ここに葬られたのだとすれば、すごく由緒正しいお寺なのかもしれません。でも、なんだか地味な感じのお寺です(^_^;)
常在寺(甲斐霊場第33番)
常在寺へ行く道は河口湖沿いのドライブコース。しばし、湖畔でクルマを停めて、富士山はどっちの方向だろうと……。あいにく上空に雲がかかり、方向はわかりましたが、冨士の姿を見ることはできませんでした。湖岸道路からちょっと入ったところに常在寺はありました。
門の前のちょっとした空き地にクルマを停めて長い参道を歩くと先方に鳥居らしきものが……。なんだか神社っぽいけど……。さらにまっすぐ行くと「社務所」がありました。そこではっきり認識すべきですよね、ここが神社だって。でも、社務所に行って聞いてみました。さすがに「ここは常在寺……、では、ありませんよね?」という聞き方になりましたが(^_^;)
ここは武田信玄の祈願所であった御室浅間神社。境内も参道もとても広々としています。n日蓮宗の常在寺はお隣でした。浅間神社の参道を途中で右に折れると、お寺の裏にでることができました。晴天なら境内から見事な富士山の姿が見えるそうです。うーん、相変わらず雲がかかっていて残念。
13世紀頃の開山らしいのですが、このお寺はたびたびの火災で焼けています。1949(昭和24)年にも堂を焼失したそうです。この数度の火災を免れたのは享保年間に作られた山門と宝蔵はだけだそうです。その後、本堂や鐘楼などは再建されています。
常在寺の寺宝には、鎌倉期に作られた金銅薬師如来立像や日蓮上人の直筆「下山御消息」、江戸初期に谷村城主納めたといわれる馬具一式などがあるそうですが、御朱印スタンプラリー程度じゃ見せていただくわけにもいきませんね(^_^;)
お墓所で納骨の儀を行っているご家族がありました。で、周囲を見渡すと、見える範囲内のお墓が全部、同じ名字でした。お〜、一族郎党! こういうお家は、きっと系図などもしっかり残っているのでしょうね。土地にしっかり根を張って生きている人々の姿を見たような気がしました。