妙法寺(甲斐霊場第32番)
妙法寺の庫裏は、時代劇のセットのようでした! 間口13間、奥行き7間半といいますから、23.5×13.5メートルぐらいですか。1886(明治19)年にお寺が焼失したときに、船津にあった民家を移築したものだそうです。江戸末期の建築らしいとのこと、町の文化財になっています。当時の家具や、紀州徳川家のお抱え絵師、波羅蜜(雪岳)が杉戸に描いた鶴の図などが残されています。けど、呼べど叫べと反応なし。開けっ放しなのは、お留守でも家を見に来る人に開放しているということでしょうか。犬が2匹、こちらはつながれておりまして、おとなしいのですけど、見張り番?
このお寺には文化財がいっぱい。広い境内の左脇には三十番神堂があります。三十番神堂は法華経を守護する三十体の神像を祀る建物だそうですが、明治期の和洋建築。柱や鴨居などに細密な彫刻が施されています。本堂も明 治時代の建築だそうです。珍しい村芝居の回り舞台もありました。いまでも、使っているのでしょうか。
妙法寺の起源は1278(弘安元)年、日蓮聖人が富士山麓で布教に歩いたとき、その説法に感銘を受けた農民たちが法華堂を建てたことに始まるそうです。そのとき、日蓮が農民たちの持ち寄った紙に曼荼羅を書きました。これが「二十八紙大曼荼羅」と呼ばれるもので、日蓮の曼荼羅ではもっとも大きいものだそうです。
この大曼荼羅は、妙法寺の本寺に当たる日法が開いた光長寺(静岡県)にのっとられて?いまでもそこにあるそうですが、妙法寺住職一代に1回限りの里帰りが許されるのだそうです。妙法寺は、代わりに日法が書いた十八曼荼羅がご本尊となっているそうですが、なんだかだまされたような話じゃないかなぁ(笑)
酉の市「花園神社」
今日は一の酉。各地の鷲神社の祭礼で、古くは酉の祭と呼ばれていたそうです。大酉祭、お酉様とも呼ばれています。私は花園神社に行ってきました。すごい賑わいで。参道は左右にいっぱいお店がついて、外の靖国通りも区役所通りのあたりまで、ぎっしり歩道にお店が出ていました。
酉の市といえば、一番人気はなんといっても浅草の鷲神社。吉原へ行く通り道にあるので、おかみさんには「酉の市に行ってくる」と言って吉原へ、なんていう噺もありますね。バブルの頃は、花園神社も宵宮が深夜になってからが佳境だったそうです。お店がひけたホステスさんを腕にぶら下げて、鼻の下をのばしたおっさんが、「大きいの買って〜」なんて言われると、やに下がってシャンシャンシャンと手締めという風景が見られたそうです。いつの時代も男ってヤツは……(笑)
今年は宵宮が雨模様でした。人出はどうだったのでしょうか。商売繁盛の縁起物ですから、雨が降ろうと槍が降ろうと、かもしれません。この酉の市で縁起物の熊手を買うという風習は関東のものなのだそうですね。へぇ〜、全国区かと思ってました。
酉の市の縁起物の代表格は熊手ですが、これは鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえていて、鷲づかむという意味が込められているそうです。熊の手の形じゃないんですね。熊手は年々大きくしてゆくものとされています。大きさもさまざまなものが売られていますが、小さいのを買う人は縁起物初心者? 何十年と買い続けたら、どれだけの大きさになっちゃうのでしょうか? 置くとこ、困りそうですね。
福を掻きこむ熊手の他に「頭の芋(唐の芋)」や粟でつくった「黄金餅」があったそうです。頭の芋は頭になるような出世をする、芋は子芋を数多くつけることから子宝に恵まれる、黄金餅は金持ちになれるというようです。小金持ち? 欲がないようですね(笑) 幕末頃からは黄金もちに替わって「切り山椒」が縁起物となってきたそうです。花園神社でも売っていました。これを食べれば風邪を引かないそうですよ。
縁起物の市だけに、切り山椒をはじめ、打出の小槌とか南天の箸とか、縁起物系の露店も普通のお祭りよりは多かったように感じます。その中で、飴細工というのを見つけました。ピンポン玉ぐらいの飴が、職人さんの手によって数分で動物や鳥に変わっていきます。おもしろくて、しばらく見とれてました。かなりの人垣ができていました。昔の縁日では、けっこう当たり前にあったようなのですが、私ははじめて見ました。見ている人ばかりで、買ってる人が少ないのは、お店の人にとっては困りものかもしれませんけど(^_^;)
境内を出て、ふらふらと西武新宿のほうへ歩いていたら、後ろから赤色灯を回し、すさまじいサイレンとともに大型の消防車が2台、かっとんで行きました。どこで火事? と思っていたら、また2台。そして、救急車も。歌舞伎町の中へ入って行きます。ついつい、追いかけて、見に行ってしまいました。火事と喧嘩は江戸の華?(^_^;)
集まった消防車は、私が数えただけで梯子車も入れて12台。狭い路地に入りきれずに靖国通りで待機。「2階のマージャン店!」という声が飛び交っていましたが、幸い誤報か、小火程度ですんだようで、完全防備のファイアーマンが数名、ビルに入っていきましたが、ほどなく降りてきて解散指令みたいでした。しかし、繁華街でビル火災って連絡が入ったときは、消防署にも緊張が走ったでしょうね。西新宿方面からも四谷方面からも来ていました。ちなみに、パトカーが一番最後だったみたい(笑)
承天寺(甲斐霊場第31番)
わかってるならと、目の前に出された試食は、そばとうどん、それぞれ大盛り! お昼時ではありましたが、せっかくだからと全部食べたらめまいがしました(笑) でも、どちらもすごくおいしかったです。そして、うどんと店先の無人売店の1本100円也の泥つき大根を買って、そそくさとトランクへ納めました。駐車場で空を見上げると、すぐそばに大きな富士山。あまり天気はよくなかったのですが、そのときだけは日が差して、本当に美しい冨士の姿を見ることができました。
承天寺は風情のあるお寺です。翌日に薬師様の縁日を控え、参道に番傘か掲げられていて、それが独特の雰囲気をかもしだしているようです。「ごめんくださいと」と声をかけると、お寺の隣にセミナーハウスがあり、地域の老人会の給食サービスをなさっているらしく、お弁当が運び込まれたり、取りに来る方がいたりでてんやわんや。わぁ、申し訳ない時間に来ちゃったなぁ。
でも、再訪するわけにもいかないので「語朱印を……」と切り出すと、しばらくして、お寺のご隠居さんでしょうか、80代後半ぐらいの老婦人が出てきてくれました。そして、一度、奥へ引っ込むと、「この辺の漬物だから食べてみて」と沢庵とお茶を持ってきてくれました。この沢庵が塩辛くもなく、ちょうどよく漬かっており、大根の味が生きていて本当においしかったです。山盛りで出してくださったのに、ポリポリ、ポリポリ、漬物好きにはたまりません(^_^;)
この方は麻布十番の生まれで、「疎開してきたのが縁で、ここに住み着いたのですよ」とおっしゃっていました。すばらしい自然に囲まれて、人情も温かく、本当によいところですと。しかし、冬の寒さだけはもう大変なものだとか。そうでしょうねぇ、富士山の吹き降しって感じですから。麻布十番のおいしい鯛焼き屋さんやお煎餅屋さんの話に花が咲きました。なんで、ここで?(笑)
本堂の前に座っていると、目の前のイチョウがすっかり色づいて、わずかな風にも葉を落としています。楓も色づいています。今年は、黄葉する木の順番が例年と違うそうで、やはり地球はおかしくなっちゃっているのかもしれませんねぇと。そのイチョウの奥に見えるのは、村の文化財にもなっている鐘楼。和唐折衷様式というそうですが、美しい姿です。「行く年来る年」で、こちらの鐘の音が全国に流れたこともあるとか。
承天寺はもともとは現在地より山の上のほうにあったそうです。開山は1184(寿永3)年で、当時は長寿山上天寺という名称であったそうな。1521(大永元)年に焼失し、1608(慶長13)年(1608)に再興。そのときに現在の寺名、医王山承天寺に改められたそうです。
手水場には清らかな湧き水が流れていますが、この水は7年前の富士山の雪が地下水になって流れてきているものだといいます。なんだか、ロマンがありますね。帰りに「惚け防止のために作ってるのよ」と、千代紙で作った手作りの楊枝入れまでいただきました。すっかり長居してしまった承天寺でありました(^_^;)
西念寺(甲斐霊場第30番)
「時宗 富士道場」と書かれた板がかかる冠木門様式の山門の正面に本堂が見え、開け放たれています。ここは平地でちゃんと駐車場もありますが、やけにたくさん車が止まっていました。どうやらこれから法要が営まれるようです。と、小さな子どもを連れた若いお母さんたちがぞろぞろ出てきて、どんどんクルマは出て行き、がら〜ん。法要もあるようでしたが、どうやら幼稚園の説明会があったようです。幼稚園は本堂のずっと奥らしく、気づきませんでした。
「富士道場」の額がかかっているように、719(養老3)年に行基が富士山で修業したときに、この地に堂をつくり富士道場としたのが始まりといわれます。その後、1298年(永仁6)年に時宗の僧が布教のために立ち寄り、時宗の道場にしたそうです。時宗というのは聞いたことはありますが、時宗の寺院を訪れたのははじめてです。
富士山信仰は浅間神社ばかりではなく、この西念寺とも関係は深く、江戸時代の富士講の人々は西念寺精進場で身を清めてから富士山に登ったそうです。吉田の火祭りのときには富士山型の神輿が浅間神社からお旅所へ行きますが、このお旅所では西念寺の住職が正装して門前に迎えるのだそうです。火祭りに来たときは、お旅所は混雑のため敬遠だったので、そのお迎えを拝見することはできませんでした。というか、 その気なし?(笑)
山門脇にある薬師堂には霊験があらたかといわれる「西念寺薬師」が納められているそうです。鎌倉期の作で、県指定文化財だとか。一般の参拝客はこういうものをナマで見せていただけるチャンスはほとんどないのが残念です。
月江寺(甲斐霊場第29番)
国道139号線を進んでいくと「月江寺駅」という駅があります。駅名に名前があるくらいで、広くて立派なお寺です。昔は、参道も賑やかで、富士吉田市の中心的な商店街だったそうですが、いまはかつての賑わいは感じられません。地方の商店街はやっぱり厳しいようですね……。
相変わらず道を間違えて、本来なら下の道から参道、山門、本堂と進むべきを、上の道からお墓所を通って降りてきて、いきなり本堂の前に到着。境内は、ここで運動会ぐらいできそうなくらい広々としています。こういうロケーションだと、かえってどこにクルマを停めるべきか悩みますね。ど真ん中? まさかね。
月江寺ははじめは富士山別当称光院という富士浅間神社の祈願所だったそうですが、室町時代に入る頃にはすっかり廃れていたそうです。室町時代になって向嶽寺(甲斐霊場第12番)の禅僧、絶学無能が祥春庵という庵を開いて再興したそうです。
このものすごく謙虚なのか、ものすごく自信家なのかわからない名前の禅僧は、あちこちで中興の祖になっているようですね。よく名前がでてきます。少なくともものすごくエネルギッシュな……禅寺の修行僧にそぐわないイメージの言葉です(笑) ガリガリに痩せていて、柔和な顔で、ものすごい精神のパワーをもっていたって感じでしょうか。
その絶学無能師がせっかく再興したのに、その後、このお寺は結局、無住になってしまったそうです。江戸初期に禅心聖悦という禅僧が再開山して、いまのお寺になったのだとか。潰れなくてよかったです。 月江寺の寺宝には室町時代の作で「絶学祖(無)能」「三光国師」「法燈国師」の三画像がり、月江寺が向嶽寺末寺であったことを示すものだそうですが、ひょっこり出かけて行って、おいそれと見られるものではありません(^_^;)
境内に入ると正面に本堂。東側の隅に鐘楼が建っていますが、これは新しく、最近になって建て直されたように見受けられます。本堂の左右にはピカピカの文殊菩薩と普賢菩薩の像もあります。墓地の入り口にたたずんでいる観音様と、その脇に植えられた見事に紅葉したドウダンツツジの赤が素晴らしいコントラストを見せていました。
山門を降りていくと、左側にはこじんまりした池があります。カモが泳いでいる水辺の陽だまりで本を読んでいる人がいました。近所にこんな場所をもつ人は幸せですね。