菊まつり(高幡不動)
11月になると、あちこちで「菊まつり」が開催されています。都内でも数箇所で菊が見られますが、今日は高幡不動へ。とはいえ、菊はあまり好きな花ではないのですが。野菊のような小さな花はともかく、大輪は、なんとく「これでもか!」って感じがしませんか?(笑)
それはともかく。始まったばかりなので、まだつぼみが多く、ちょっと早すぎたかな、の感があります。とくに菊人形とか、何か造形にしてあるものは、ほんの少ししか花がなくてちょっと寂しい感じでした。
すごく印象に残ったのは、緑色の花。葉の色よりはちょっと明るめですが、こんな色の葉っぱもありますよという色です。想像力欠如の身では、緑=葉の色のイメージがあるので、驚きました。想像力欠如は私だけではなかったようで、この花に注目している人はかなりいました。写真では黄色っぽく見えちゃうかなと思って、隣に黄色の花の写真を置いてみます。
高幡不動の「菊祭り」は、そんなに規模の大きなものではないようです。といっても、これまで「菊まつり」というものを数多くみてきたわけではないので、どの程度が大規模というのかと言われれば、返事に窮するところですが。以前、どこかの植物園で見たときはもっとずらっと花が並んでいたという印象があります。
今日の目的の一つに大日堂のお参りがありました。外からは何度かお参りしているのですが、中に入るには拝観料が必要なので遠慮してました。といっても200円。まあ、200円を惜しんだというよりは(笑)、週末や休日だと人が多くてゆっくりできない感じだったので。ちなみにここのお茶室は「知足庵」といいます(笑)
この大日堂には「鳴り龍」天井があります。思った通り、月末の平日では誰も人はいなかったので、正面に座らせていただき、「ポンポン」と手を打つと……、天井が震えます。連れが手を打っているときに離れてみたのですが、ちょっと離れるともう音は聞こえません。不思議ですねぇ。
そして、この大日堂の裏回廊には、日野が在所の土方歳三や井上源三郎をはじめ、近藤勇やそのほかの新選組隊士の位牌が並べられているのです(写真撮影は禁止)。高幡不動の総量が函館の歳三ゆかりのお寺などで法要をしたときの写真も展示されていました。これが一ヵ所や二ヵ所じゃないから、やっかいなんだけど(笑)
ここで土方さんのお位牌に手を合わせて、一応、ゆかりのお墓やお墓らしきもの(^_^;)にはすべて参ったかな(笑) とはいえ、どの場所にも遺髪ひとつ入ってないんだけどなぁ。あとは板橋ですか。まあ、そこは名前だけみたいだから……。と言いつつ、機会があったら行ってみましょう(笑)
高幡不動の裏山?には、四国八十八箇所インスタント巡礼コースのようなものがあります。ちょっと歩いてみたのですが、第八番ぐらいで挫折。けっこうな山道です。全部、回るには小一時間かかりそう。こういうのは「行くぞ!」という覚悟がないと、「へぇ〜、あるんだ〜」ぐらいの気分で行くと面倒になってしまいますね。というのは、私の悪い癖っていうだけだけど。
土方歳三像の脇に「石田散薬」の材料となった「みぞそば」という植物が植えられていました。今回、初めて気づきました。浅川の土手に生えていたという草ですよね。菊よりはかなり可憐(笑) ポリフェノールが含まれているという話をきいたことがあります。
駅前で偶然、入った定食屋さんが「池田屋」。単なる屋号だと思ったら、あの「池田屋」を意識したものでした。中は新選組グッズでいっぱい。メニューも土方歳三丼とか沖田総司丼とか(笑) 食べたいものがあっても伊東甲子太郎丼じゃ、ちょっと食指が動かないな、とか。まあ、しゃれだと思えばそんなものですが、史実とはまったく無関係であるようです。ちなみに味はといえば、コメントは差し控えさせていただきます(^_^;)
日比谷公園
第二花壇のところだけだったのですが、色とりどりの花も賑やかです。作られた自然ながら、いかにも都会の公園らしい風情。もう昼休みも終わった時間なのに、けっこうベンチに座っている方がたくさんいました。午後のおしゃべり? 遅い昼食? 外国人もかなり多く見かけました。
少しだけですが、江戸城の一部だった石垣などが残されています。濠は閉じられて、「心字池」という池になっています。上から見ると「心」という字になっているそうですが、う〜ん、よくわからない。全体を俯瞰できるような場所もないようです。
西洋風の花壇とには西洋風の噴水などがあり、おしゃれなレストランやオープンエアのカフェテラスなども。「今月のお休みは雨の日」と書いてあったのがおもしろかったです。そう、雨の日に公園をウロウロしている人は少ないでしょうからね。それでもこの公園は「近道」的役割も果たしていたりするので、けっこう人通りはありそうです。
道の脇には松が化石になった「松石」があったり、西洋の寓話の彫像があったり、確かどこかにヤップ島の石貨もあったはず。第二花壇周辺だけで引き返したので、どこにあったか確認しませんでしたが。
公園から出で、京橋へ行くのに、どうせなら乗り換えなしでと思い、銀座線の「銀座」までブラブラ歩きました。晴海通りを歩くのはずいぶん久しぶり。有楽町周辺は来るたびに変わってしまって……、本当に再開発、再開発です。それでなくてもめったに銀座には来ないので、目印にしていた建物がない! なんてこともしばしば。
それでも銀座四丁目の交差点のところまで来ると、相変わらず和光(服部時計店)の前では時計を見ながら人待ち顔でたたずんでいる人がいたり、木村屋総本店では「あんまん」を求める人の列があったり、変わらない銀座の風情もありますね。
銀座方面を見渡すと
ブログなんか書き始めると、けっこう一生懸命に街を見るようになったりするからおもしろいですね。いままで道を歩いていてもスルーしていたようなところに目がとまるようになります。別にネタ探しってわけでもないのだけれど(笑)
京橋方面を見渡すと
地下鉄に乗ろうかと思いましたが、一駅だし。結局、京橋まで歩いてしまいました。たいした距離ではない(^_^;) 銀座口のところで振り返ると、やっぱり銀座方面は賑やかで、京橋方面は人もまばらのような。銀座が賑やかに見えるのは幟旗のせいかもしれません。
宝鏡寺(甲斐霊場27番)
宝鏡寺ではたくさんの羅漢さんが出迎えてくれました。本堂の脇、庫裏の前には白砂の庭があり、羅漢さんを眺めながらゆっくり休憩できるようにもなっています。羅漢さんは一つ一つ表情が違うので、本当に見ていても飽きませんね。
このお寺は、1346(貞和2)年、北条重時の息子である鶏岳永金という僧によって開山されたそうです。境内は広々としていて、庭園も手入れが行き届いています。が……、犬が一匹、放し飼いでウロウロしていて、私は固まってしまいました。お寺の犬なのだから、殺生はしまいと思いつつ、やっぱり知らない犬はねぇ。この辺の家では放し飼いは当たり前なのでしょうか。まあ、広いから、他人に迷惑のかかることはないでしょうが。
本堂の右手にある庫裏は300年以上前に建てられたものだそうで、間口7間、奥行15間といいますから、12メートル以上、奥行きは27メートルぐらいですか。1間って1.8メートルですよね? 古い木造の家としてはかなり大きなものです。
本堂の裏山には羅漢堂があり、旧山門を取り壊したときの門柱を材料にして彫った十六羅漢をはじめとする100体以上の羅漢像があり、毎年、増えているのだとか。庫裏の廊下から108段の階段を上ると羅漢堂に行けるそうです。私たちは残念ながら羅漢堂までは行かれませんでした。
羅漢堂のある裏山には、県の天然記念物に指定されているヤマブキソウが群生していて、4月下旬から5月上旬には山を黄色に染めるそうです。この群生地は1万坪はあるそうですから、きっとすごい迫力なのでは? この時期には多くの人がヤマブキソウを見に訪れるようです。ヤマブキソウは、ヤマブキに似た黄色い花で、ヤマブキの花弁が5枚なのに対し、こちらは4枚。この山にはヤマブキソウばかりではなく、エンレイソウやイチリンソウなどの山の花が咲き乱れるそうです。うーん、やっぱりお寺めぐりは春がよさそうですね。
広教寺(甲斐霊場26番)
江戸時代は、この地域でも何本の指に数えられるというくらい大きなお寺だったそうですが、100年程前の火災で全焼してしまったそうです。いまは門を入ると正面に本堂、右手に鐘楼、左手には瑞宝殿がある、普通の規模のお寺です。中をみせていただくことはできませんでしたが、瑞宝殿には善光寺如来、豊川稲荷、七福神の福禄寿が祀られているそうです。
ご本尊の地蔵菩薩像は1390(明徳元)年に京都の仏師である七条法眼により刻まれたものという説明板がありました。また、高さ10センチほどの像を中心に、千体の薬師像が厨子の中に安置されているという珍しい仏像もあり、これが寺宝なのだそうです。1709(宝永6)年に作られたものだとか。
このあたりは「大幡」というくらいで、機織りの盛んな地域だったそうです。これは主として女性たちの仕事。織物仕事で忙しい女性たちの楽しみが広教寺の善光寺如来祭りと千躰薬師祭りだったそうで、いまでも)女性たちの信仰が厚いお寺であるそうな。
御朱印をいただくと、お線香をつけるための火傷防止フードのついたライターをいただきました。実態は使い捨てライターですが、長く火をつけていても手元が暑くならないように、火の出るところに長い筒状のカバーがついています。なるほど、これならろうそくをつけなくてもお線香に火をつけられますね。
長生寺(甲斐霊場25番)
長生寺は1469(文明元)年、武田信昌によって開かれ、その後、このあたりの領主だった小山田信有などの菩提寺として信仰されてきたお寺です。参道入口にはこれらの歴代領主の名前を彫った「開基塔」が立てられています。しかし、1882(明治15)年の火災で「中雀門」を残して全山焼失し、文化財なども行方不明になったりして、廃寺寸前にまでなったそうです。
1981(昭和56)年の開創500年を期に再建され、現在の姿になったとか。参道の入り口の石段の上にある「中雀門」は唯一、焼け残ったもので、17世紀初頭の建築らしいです。門の両脇にそそりたつ杉の大木が見事でした。
この寺には幼稚園があり、境内は子どもの遊び場になっています。保育士の方にうかがって、奥の庫裏へ。ごめんくださいと声をかける暇もなく、玄関前には「御朱印は自分で押して行け」という案内がありました。そういうわけで、自主制作の御朱印です(-_-;)
幼稚園があって、人はいっぱいいるようだし、庫裏の玄関や窓は開いているわけです。これまでも住職がお留守のお寺は数ありましたし、作り置きの紙に大黒さん、坊守さんが日付だけ書き込んで渡されるということはありました。しかし、自主制作というのは……。大儀という言葉は、「くたびれてだるい、何をするのもおっくう」という意味があるようですが、大儀山長生寺、御朱印を押すもの大儀? そのぐらいじゃないと長生きしない?