大善寺(甲斐霊場第18番)
甲州街道を下って、甲斐への玄関口にあるお寺が大善寺。ここらへんは甲陽鎮撫体が壊滅、敗走したあたりのご近所でもありますね。入り口を入ると、お〜っ、またしても階段! たぶん、117段あったと思います。肩で息をする感じで登りきると、迎えてくれるのは仁王門。1704(元禄17)年に創建され、現在のものは、1798(寛政10)年に再建されたものだそうです。 三間一戸の入母屋造、というものだとか。
柏尾山大善寺は718(養老2)年に行基が薬師如来像を刻み、本尊として安置したことに始まると伝えられています。甲州街道を下って、ここから甲斐に入るという入り口に構える寺院だけあって、寺域も広く、立派です。1176(安元2)年(1176)に伽藍を焼失、再建された堂塔が1270(文永7)年に再び被災、1286(弘安9)年(1286)に北条貞時によって再建されたのが現在の薬師堂だそうです。
この薬師堂は鎌倉和様建築と東大寺大仏様式が組み合わさっているという国宝の建造物だそうです。建築様式のことはさっぱりわかりませんが、落ち着いた風格のある建物であることは確か。堂内にはご本尊の薬師如来像と日光・月光菩薩が安置されていて、いずれもサクラ材による一木造漆箔像で重要文化財になっています。
本堂に上げていただくと、長い階段を登った疲れで畳の上に座ってしばし休息。連れが白杖を持つ人だったせいでしょうか、受付にいた僧侶の方が、お経をあげてくださいました。Tシャツとジーンズという姿でしたが(笑)、そのお気持ちがうれしいですよね。ここにはまだ宗教心というものが生きているんだなと思いました。
薬師堂の横にある鐘楼は1714(正徳4)年に再興されたもので、かつては1668(寛文8)年の銘がある鐘が釣り下がっていたそうです。この鐘、アジア太平洋戦争のときに供出させらちゃったそうです。なんということでしょう! あの戦争で、お寺の鐘などもずいぶん熔かされてヘルメットかなんかに?なっちゃったらしいですね。現在の鐘は、1983(昭和58)年に行われた弘法大師1158年記念行事に新たに作られたものだそうです。
帰り道は階段ではなくゆるやかな坂道。途中に理慶尼のお墓がありました。武田氏滅亡の一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は、「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺にいまも保管されているそうです。
薬師堂参拝のあとには庭園に案内されます。庫裏の裏手にあるお庭は、池泉観賞式蓬莱庭園といわれ、県指定の名勝となっています。江戸時代につくられたもので、高野山の普門院、鳥取の興禅寺とともに江戸時代の日本三名園に数えられています。滝や築山石組があり、下側に池泉のある造りは、江戸初期の庭園の典型的なかたちだそうです。
大善寺は「ぶどう寺」とも呼ばれています。これは僧行基が甲斐の国勝沼の柏尾で修行していたら、夢の中に右手に葡萄を持った薬師如来が現れ、行基がこの姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したからだそうです。ここの薬師如来は葡萄を持っているのです。行基が葡萄の作り方を村人に教えたのが、甲州葡萄の始まりだと伝えられています。甲州葡萄が、そんなに前から栽培されていたとは知りませんでした。
お庭を見せていだいている参拝客にも、冷えた葡萄を接待してくださいます。種類ははっきりはわかりませんが、巨峰のような大きい紫の粒、ちょっと薄い色の甲斐路かな、それとうす緑のロザリオビアンコ? どれもおいしくて、みんなで奪い合うようにいただきました。これだけは、この季節に来てよかった〜♪です。
下石原八幡神社
どこのお祭なのかなと思って近寄ってみると「下石原八幡」と書いてあります。うーん、知らない名前だなぁ(^_^;) お祭の世話役らしい年配の女性に「八幡さまは、どちらにあるのですか?」と聞いてみました。丁寧に道順を教えてくれましたが、最後に「小さい神社ですよ、何もありませんよ」と念押しされました。だめじゃん、氏子さんがそんなこと言っちゃ(笑) でも、行ってみました。
確かに小さな神社ですが、珍しい形の獅子頭が飾られていました。説明書きには「この獅子頭は大獅子、中獅子、女獅子の三頭で一組になっており、旧下石原地区の鎮守、八幡神社の宝物である」とありました。この獅子頭を用いて行われる獅子舞は元禄時代に始められたものとか。何もないどころか、由緒ありげではありませんか!
獅子頭は、その獅子舞を始めた源正寺の住職が作ったものといわれ、いまでも祭礼のときに獅子舞を奉納するとか。あらら、今日? 初詣のときにも見られるとのことです。
この神社では神様は獅子に降りるといわれているため、宮神輿はないそうです。巡行するのは太鼓だけ。 あ、あの太鼓がそうだったのか! すごく大きくて、子どもが叩いてもいい音をだしていました。神輿は町内の神輿なんですね。
八幡神社の祭神はふつうは応神天皇なのだそうですが、この神社は皇子の仁徳天皇を祀っているので、「若宮八幡」というそうです。本殿の建物は、総けやき造りで、ほぼ全面に精巧な彫刻がほどこされ、調布市の重要文化財になっているとか。武蔵国入間郡中藤沢村(現/入間市)の宮大工杉田石見頭政永と喜兵衛の父子によって建てられたという記録が残っているそうです。
何もなくはないじゃないですか! そういえば、近藤勇は西光寺で休息し、若宮八幡に戦勝を祈願したと伝えられているといわれたとき、ん? お寺で休んで神社に戦勝祈願? 若宮八幡ってどこ? とは思ったものの、持ち前のいい加減さで、きっと江戸のどこかの大きな八幡様だろうなんて、聞きとばしていました。もしかして、ここのことだったんだ!
いまも昔も、生活の中で神社とお寺がどういう風に扱われていたのか、位置づけられているのか、よくわからないのですが、極楽浄土へ行くことを願ったり、自分自身を救済するためにはお寺参り、戦争に勝つことをお願いしたりするのは神社、なのでしょうか? 残念ながら、若宮八幡は近藤勇の願いは聞き届けてくれなかったようですね。
神社の前は国道20号線の、しかも高速道路の出入り口付近とあって、クルマがゴーゴー走ってますが(実際、何百回通り抜けたでしょう、この前を! 神社の存在は全然知らず……(-_-;))、一歩、境内に入るととても緑豊かで、落ち着いた雰囲気です。「上石原鎮守の森は、『はけの緑』に覆われ、古くから里人が自慢したといわれる景観」と説明されています。
幕末妄想in西光寺
久しぶりに何の予定もない土曜日、新選組改め甲陽鎮撫隊が甲州出陣の際に休息したという西光寺(東京都調布市)にぶらり散歩でいってみました。 京王線の「西調布」駅のすぐそば、旧甲州街道沿いというので、行けばわかるだろうという感じで歩いていくと……、なーんだ何度も通ったことがあるじゃない(^_^;) この先にけっこう大きなゴルフ練習場があって、以前、通ってたことがあるくらいで。
1867(慶応3)年3月、甲陽鎮撫隊を率いた近藤勇は、甲府城へ行く途中で、生まれ故郷(といっても10歳ぐらいまでしかいなかったのよね)上石原の西光寺で休息し、若宮八幡に戦勝を祈願したと伝えられています。向かいの名主の中村さんに接待を受けたとか。
西光寺には、近藤勇の坐像があります。案外、新しそうだなと思ったら、2001(平成13)年に近藤勇没後130年を記念して、地元の新選組研究団体によって建てられたものだそうです。ちなみに代表者は土方さんという名前の人らしい(笑)
近藤勇の像といえば、たいてい腕組みに正座という同じスタイル。写真が一枚しか残っていないので、これが原型なのでしょうが、芸がない? 顔が不細工なのはしょうがない(^_^;) けど、この像は、写真よりちょっと修整してある感じじゃないですか(笑)
西光寺の開山は応永年間(1394〜1428年)とされ、はじめは真言宗で、その後、天台宗に変わったそうです。徳川家光から寺領14石2斗を受けた御朱印寺だったということで、なかなか格式は高いようです。
宝暦年間(1751〜1764年)に本堂や楼門など大規模の堂が建設されたと伝えられていますが、1879(明治12)年の火災で、山門、楼門以外は焼失したとのこと。本堂に安置されている大日如来坐像には像内に頭髪を包んだ紙片が納められているそうで、1660(万治3)年(1660)に造像した旨と願主の女性の名が記されているとか。新選組妄想どころではなく、江戸時代の貴重な歴史を物語る寺院だったんですね。
左側の仁王様 右側
お寺の記録に宝永年間(1704〜1710年)に弁雄が建てたと記されていて、釣鐘にも弁雄の名が記されているところから18世紀初頭に建造されたと特定できる仁王門は、正面両脇間に仁王像、楼上には銅鐘が釣られています。仁王門でもあり、鐘楼門ともいうそうです。そんなに古いものとは思えないほど、よく保存されているのではないでしょうか。
結局、近藤勇は甲州の柏尾山で官軍にやぶれ、敗走して、最終的には流山で捕まって斬首。このお寺にも二度とお参りすることはかなわなかったのですね。故郷にも生きて帰ることのできなかった近藤勇の墓所は、このお寺から歩いて15分ぐらいのところにあります。
三光寺(甲斐霊場第17番)
これまで16のお寺を廻ってきましたが、この菱渓山三光寺ではがっくり。山門をくぐると本堂の前にいっぱい座布団が干してあったのです。私たちは、座布団にお参りすることになるんですか? なるんです(-_-;)
そして、このお寺は桃山時代に造られたとされる流水式池泉観賞蓬莱庭園というのが有名なのですが、これもだらしなくネットが。かぶせられています。全国的にも例の少ない流水式池泉を持つ古庭園として、県指定の名勝となっているということでしたが? 普請中だから……とおっしゃっていましたが、見受けるところ、ずいぶんの期間、放置されているとしか見えないんですけど。
親鸞聖人像にもクモの巣が……
平安時代には南の堂、中の堂、北の堂の3堂を中心に12坊を有する、天台宗と真言宗の道場として栄えたそうですが、いまは浄土真宗です。あるいはもう寺院であることを放棄したとか? 同じ浄土真宗でも一つ前の万福寺とはずいぶん雰囲気が違います(-_-;)
気を取り直して、本堂の裏へ回ると14世紀にあった火災をまぬがれたという聖徳太子堂がありました。これは室町時代に造られたもので、市の文化財に指定されているそうです。2001(平成13)年、解体修復され、復元されたものだそうです。
さらに! 御朱印をいただこうと案内を乞い、300円と言われて500円玉を出したら、「お寺はおつりなんかないんだから、小銭をもってこい」と怒られました。しぶしぶ200円のおつりをいただきましたが……、なんだかなぁ。
万福寺(甲斐霊場第16番)
境内には聖徳太子がこの地を訪れたとき、乗っていた馬の蹄が石の上に残ったと伝えられる「馬蹄石」という大石があります。それよりもなによりも、境内にそそり立つ幹囲約5メートルのムクノキの大木が有名。周囲を取り囲むには、おとな三人がかりくらいでないとだめですね。県の天然記念物に指定されています。このムクノキばかりではなく、イチョウなど大きな木が目につきます。樹齢何年? それだけの歴史をもつ寺院だということの証でしょう。
このお寺には親鸞聖人が昼食したときに、もっていた杉箸を地面にさすと、箸は芽をふいて大木となったという伝承もあります。この話にちなんで万福寺は「杉の坊」とも呼ばれていたそうです。その杉はいまでは枯れて根元だけが残っているそうで、その根元を囲んだお堂が「お杉堂」と呼ばれています。
御朱印をいただきたいという声に応じてくださったのは、坊守さんでしょうか、若い奥様でした。「はるばる遠くからご苦労さまでございます」と丁寧に慰労していただき、こちらは遊び半分(^_^;)、ちょっとどきまぎしてしまいました。すみません、お参りはまじめにしてますから。
門前の果樹畑で、ちょうど葡萄の収穫が行われていました。たたわに実った葡萄の房には一つ一つ丁寧に袋がかけられていて、甲州は「フルーツの里」なんだなぁと思いました。手を伸ばして一房いただいちゃったり……したら、犯罪です!(笑)