琵琶湖のしっぽ
石山寺のあるところは琵琶湖のしっぽ、瀬田川になっているところのようです。地理不案内ではっきりはわからないのですが、遠くに見えている橋は東名のようです。そうか、あの上は何度も走っているのだなぁ。左右をきょろきょろすれば石山寺も見えたのかもしれません。いえいえ、わき見運転はいけません(笑)。
琵琶湖には大きな遊覧船が走っていますが、瀬田川にもかわいい遊覧船が走っていました。乗ってみようかなと思って時間を聞いたら、乗船時間が1時間だそうです。う〜ん、ちょっとそれだけの時間はとれませんでした。残念。
夜になって、浜大津へ行ってきました。琵琶湖の水面は真っ暗で、ただ目の前に打ち寄せる波でその大きさを想像するばかり。きれいな明かりを灯した遊覧船がゆっくり滑るように走っているのが遠くに見えました。連れと話をしていて、つい「海が……」と言ってしまいます。
夕食をかねて居酒屋のようなところへ行ったのですが、そこで「松の司」という名称の地酒がとてもおいしいと聞きました。売っているところも限定だそうです。私は日本酒はあまり飲まないので、味もわかりませんし、飲んでみなかったのですが、連れの姐さんは「おいしい、おいしい」と冷酒のお代わりを繰り返し、よれよれになってました。大丈夫かなぁ、まっすぐ歩いてなかったよ(笑)。
中秋の名月
中秋の名月を奇しくも名月の名所で見ることになりました。今日は大津。石山寺に行ってきました。ちょっとの隙に行ったので、今日は半日どころか2時間。石山寺は紫式部のゆかりのお寺だよなぁくらいで、予備知識ゼロだったのですが、たかがお寺一軒、2時間では回りきれない広さでした〜。
これは琵琶湖湖畔から見た中秋の名月!?
石山寺はひとつの山がすべて寺域という感じです。山を登っていくと、あちこちにお堂があって、それが平安だ、鎌倉だ、室町だという建築ですから、「ほー、はぁ〜」と、ため息が出そうです。いや、ため息の連続といってもいいかもしれません。
幕末以外(こっちもたいしたことはありませんが)、歴史の知識なんか何にもないので、ただただその年月の長さに驚くばかり。校倉造の蔵なんか、生まれて初めて間近にみました。
月見の名所といわれる芭蕉庵の月見台は、「そうか、昔の貴族の月見はこうやって御簾ごしだったのね」と。この月見台から見るお庭も広々としてほとんど植物園。木がうっそうと繁っていました。けど、この時代にはきっと木も大きくなくて箱庭のようなものだったのかもしれません。
本堂ではちょうどお経があがっていて、たぶん般若心経だと思いますが(お経の種類はまったく知りませんが、般若なんたらかんたらと言っていたので)、なかなかいい声の僧侶で、ああ、お寺に来ているのだなぁと思い、僧侶の後ろにお座りして、しばし聴いてしまいました。
名所だけあって観光バスも入っていて、けっこう人は多かったのですが、観光バスも自家用車も年配の人が多いので、本堂とその付近でみんな帰ってしまいます。山登り(は、大げさにしても)になるので、裏に登って行けばひとっこひとりいない静かな空間が待っています。
紫式部が源氏物語を書いた(といわれている)部屋というのがありますが、ここにお人形がいるのはいかがなものかと。かえって、つまらない感じで違和感がありますね。山の頂上近くにも紫式部の像がありますが、こういう観光向けのものはないほうが粋かなぁ。どっちにしても、そんな高いところまで来る人は少ないと思いますが。
石山寺という名称の由来となっている岩や石の造形も見事です。なるほど石山寺かも、と。数箇所にある藤棚やお庭の木々をみると、やはり春に来たら美しいのではないかと思います。
幕末妄想in京都
京都に来ています。なかなか観光のためだけに来るいうことができず、今回も半日だけ。京都駅に着いたのがすでに午後だったので、ちょっとだけ京都になりました。
今日は島原遊郭跡から壬生界隈をウロウロしていました。やはりちょっとだけ京都で来た前回、黒谷でくつろいじゃったために島原に回ったときは夕方で角屋はすでに閉まっていたので、今回は直行で行きました。が、無情にも「本日定休日」。「どんだけぇ〜」って感じですよ。よっぽど行いが悪いのか……。
私は家康にくっついて江戸に来た人の末だからというわけで佐幕派(笑)。しかもいま住んでいるのが武州多摩だったりするので新選組の贔屓です。野球友だちの好青年(見てると困るからネ)は、お父さんが会津方面の出だということでこちらもバリバリの佐幕派。まあ、100年以上前の政変でどっちの味方なんて言ってもアホらしいけど、党派性なんて、けっこう単純なものなんですよね(笑)。
ここらへんで新選組の諸君が遊んでたんだなぁなんて、歩いてるだけでもけっこう楽しいです。輪違屋さんは現在も営業中ということで観光客はお断り。前回はそう書いてあったのですが、今回は「観覧謝絶」とそっけない札が打ち付けてあるだけでした。この札はそういえば前にもありましたが。浅田次郎著「輪違屋糸里」はかなりおもしろく読みましたが、この大門でさまざまな別れや出会いがあったんだろうなぁ、とちょっとワープしてました。
私も大門を後に壬生寺へ。歩いても15分ぐらいでしょうか、昔の人の足なら、ほんとにすぐそこっていう距離に屯所はあったのですね。八木邸は訪れたこともあるし、もういいやと壬生寺で休もうと思ったら、ここには腰掛けるところもありません。総司が子どもと鬼ごっこしてたってくらいで、広いんですけどねぇ。
新徳寺 八木邸
新徳寺は門が閉ざされていて、中は見せていただけないようです。前川邸は週末などに公開する日もあるらしいですが、週末に来たことがないので中を見ることはかなわず残念。
前川邸。野口健司が切腹した部屋だそうです。
新選組が作ったという出窓には刀傷?
一休みもできないので、ふらふらと四条のほうへ歩き、伊東甲子太郎を殺っちゃった油小路へ。こういう路地には思わぬところにお地蔵様が祀ってあったり、古い家が残っていたり(しかも、文化財でも人が住んでます! これがすごい!)。この小路に織田信長と一緒に焼け落ちた本能寺の跡というのを見つけました。ここに本能寺があったなんて、まったく知りませんでした(単に不勉強なだけですが)。跡地には高校や公共の施設が建っていますが、跡地の石標のすぐ後ろが消防団の施設だったりして、しゃれが効いてる!(全然、しゃれのつもりじゃないと思いますが)。
ついでに醒ヶ井筋あたりをフラフラして、妄想がぶわ〜っな一日でした。
布多天神社「例大祭」
布多天神社の創建はあまりに古く定かではないそうですが、927(延長5)年に制定された「延喜式」という法典にはすでにその名を連ねているそうで、多摩地方では有数の歴史ある神社です。 最初はもっと多摩川に近いところにあったらしいのですが、1477(文明9)年に洪水をさけて現在のところに引っ越したという記録があるそうです。そのときに少彦名神に加えて、菅原道真も御祭神として祀ったとのこと。江戸時代に甲州街道が作られたとき、布多天神社は布田五宿(上石原、下石原、上布田、下布田、国領)の総鎮守でした。
中国から木綿の実が渡ってきたとき、日本人はまだ布に織る技術を持っていなかったそうです。多摩川の近くに住む長者がこの天神さまからお告げを受けて、木綿の布を織る方法を開発したとか。799(延歴18)年頃のことだそうです。この神社は木綿布発祥の地だったんですね。このときの布が調布と名づけられ、この地は調布の里と呼ばれたそうです。この布が全国に流通するようになると、調布の神社を布多天神社と呼ぶようになったのだそうです。へぇ〜、調布って街は、そんなに由緒のあるところだったんですか。単なるベッドタウンかと思ってました(^_^;)
この神社に残されている豊臣秀吉が欅の板に墨書した制札のほか、本殿や狛犬が市の指定文化財になっています。また、神楽殿があり、毎月25日の縁日では里神楽が奉納されます。例大祭の日は、この神楽殿で演芸のようなものがやられていましたが、そういう風には使ってほしくないなぁと、ちょっと思いました。
私はこの神社がけっこう好きで、ときどきお参りしたりしてたりして。日野に出稽古に行っていた試衛館の面々は、往復に飯盛女もいるという布田宿に泊まったことも多かったようで、こんなに古い神社だから、土方さんも沖田くんもきっとこの社を参拝したことがあるに違いない……なんて思いをはせたりしてみたりして(^_^;)
むかしは毎月25日の縁日もなかなか賑わっていて、露店が参道はもとより、ずらりと甲州街道まで並んでいたとか。いまではすっかり寂れてしまって、9月の例大祭でも境内にちょこっと露店がつくだけになりました。もののない時代は、縁日の露店でこの日しか食べられないものを買い食いしたり、日用品を手に入れたりしたもののようですが、いまやその役割はコンビニと100均に譲ったというわけで、なかなか商売は成り立たないらしいですね。
祭りは各地で町興しの一端となったり、地域社会のコミュニケーションを担ったりしていますが、布多天神の例大祭はあまり賑やかではなく、露店もほんの少し。ここらあたりはいわゆるベッドタウンとして発展してしまって、神社はもとより、縁日やお祭を守っていく氏子さんたちも熱心ではないのかなぁと思ってしまいました。
愛宕神社「出世の石段祭」
昼間は「趣味=昼寝」に費やし、夕方から愛宕神社のお祭りに行ってきました。愛宕神社は1603(慶長8)年、江戸の防火を祈念する神様として徳川家康の命によって造られた神社です。主祭神は火産霊命ですが、火を産んじゃいけないんじゃないかなぁ。境内には他に末社として猿田彦(天狗)を祀る太郎坊や福寿稲荷、大黒天、弁財天などの社があります。
愛宕神社の例大祭は「出世の石段祭」と呼ばれていますが、これは神社に上がる石段が「出世の石段」と呼ばれているからです。ものすごく急な石段で、上から降りようとするとちょっと背中がぞわっとします。数えてみたら85段ありましたが、途中に踊り場はないので、落ちたらまっさかさま。死亡事故になりかねません。今日も巡回の消防署員が「ハイヒールの方は、手すりにつかまって降りてください!」なんて、声を張り上げていました。私はスニーカーだったけど、やっぱり手すりにすがって降りました(^_^;)
上から 下から
その石段を神輿が昇り降りするっていうんですから、すごいお祭です。見物人を押し戻す警備もしっかりやってましたし(かいくくぐったわけじゃありませんが、階段の一番上で写真を撮ってる私もいい根性でしょ?)、下で大型の救急車も待機していました。
宮司の御霊移しの儀式が終わると、景気のいい祭太鼓の響きに送られて、神輿はこの石段を気勢を上げながら降りていきます。まずは一基。下に到着すると大きな拍手が沸きました。続いて「この御印籠が目に入らぬか」でお馴染みの葵の御紋の入った大きな神輿が続き、宮司らがその後に続きます。これも下に到着すると盛大な拍手。そして神輿は街へともみだして行きました。
本当なら帰ってくるのを待って、「出世の石段」登るところを見なければいけないのだけれど、3時間半も待たねばなりません。お財布もってくの忘れちゃって(パスモがあれば移動はできる〜♪)、お茶も飲めない(-_-;) 私の場合、所詮「出世の石段」は下る一方だろうと納得して、今日は引き上げました。
「出世の石段」の名称は講談「寛永三馬術」の中の曲垣平九郎の故事に由来するそうです。1634(寛永11)年、三代将軍家光愛宕神社の下を通りかかり、美しい梅が咲いているのを見て、「誰か、馬にてあの梅を取って参れ!」と言ったとか。ずいぶん、横暴なお殿様ですね、家光は。馬でなんか、絶対、無理ですよ、この階段。そのとき登っていったのが、四国丸亀藩家臣の曲垣平九郎という人。家光から「日本一の馬術の名人」と讃えられて、それから出世したというので「出世の石段」と呼ばれているとか。
愛宕神社のある愛宕山は標高27.5メートル、東京23区内ではもっとも高い山です。1868(明治元)年、勝海舟と西郷隆盛はこの愛宕山に登って江戸を見渡し、「この町を焼いてしまうのは忍びない」と談合して江戸城の無血開城に踏み切ったとか。現在は、ビルが建ち並び街並みなどは見えませんが、かつてはきっと見晴らしのよい都会のオアシスだったのでしょう。
「縁日ガイド」にも写真を紹介しています。動きが大きいのとお天気がイマイチでけっこう手ブレてますけど(-_-;)