向嶽寺(甲斐霊場第12番)
外門を通り抜けると木立に囲まれた長い賛同があり、後ろに開山堂を背負った形で仏殿があるのが珍しい風景かもしれません。書院など大きな建物がならんでいますが、境内は人気がなく静か。なんとなく物見遊山の人は拒んでいるような気配がただよっているような気がしたのは考えすぎでしょうか。
1378(永和4)年(1378)、この近くに抜隊禅師が小さな草庵を結んだのがはじまりといわれます。その後、武田信成から現在の土地が寄進され、新しい草庵が建てられたそうです。この地から南の方角に富士山(富嶽)が望めるところから向嶽庵と名づけられ、のちに向嶽寺となりました。
向嶽寺が背負っているのが塩山という山ですが、これは古今和歌集に歌われた「志ほの山 さしでの磯に すむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく」という歌に由来するそうです。塩山市という地名はこの山の名に因んでいますが、向嶽寺の山号も塩山。この地を象徴するようなお寺ですね。
境内には深い緑に囲まれた放生池があり、木の橋に風情があります。本道の裏手には1994(平成6)年に国の名勝に指定された庭園があります。1990(平成2)年に発掘調査が行われるまでは埋没した庭園だったそうで、ほぼ造られたときに近い状態で発掘されたそうです。山梨県に残る古庭園の典型、さらには日本の伝統的庭園の歴史を伝えるものとしても重要な庭園だそうですが、この日は入ることができませんでした。残念!
それと、つまらない疑問なんですけど、このお寺の前の信号が「向岳寺」となっているのはなぜ? 固有名詞には略字なんか使わないでほしいんだけど(笑)
雲峰寺(甲斐霊場第11番)
臨済宗の寺院で、甲斐国の府中からみて鬼門にあたるため、武田家の祈願所として大切にされてきたそうです。火災にあってもともとのお寺は焼失したそうですが、1558(永禄元)年に書かれた武田信玄による武運長久を祈願する文書が見つかっており、この頃の建物ではないかといわれています。1950年代から60年代にかけて解体修理が行われ、復元されたそうです。
宝物館があり、武田家代々の家督相続の証である日本最古の日の丸の御旗、「風林火山」の孫子の旗、信玄の馬標の旗、武田家の古文書など、重要文化財がたくさん展示されています。これらは天目山で武田が滅亡したとき、家臣が山伝いにお寺に運びこんだものだそうです。家臣にとっては命より大切なものだったのでしょう。
雲峰寺は舗装道路から登っていく古びた石段が参道。190段もある、すごく急な石段でちょっと怖いです。途中まで行ってみましたが、あまりここを通る人はいないらしく、足元も荒れている感じ。なぜなら、車でも上がれる道もあるからです(^_^;)
石段の途中に仁王門があり、登り切った境内の正面に本堂、右に庫裏、本堂の裏手には書院があり、いずれも国の重要文化財になっています。本堂は単層入母屋造で、柱はすべて太い丸柱を用いているとか。檜皮葺きの屋根は1997(平成9)年に葺きかえられたそうです。不勉強で読んでことはありませんが、有名な「大菩薩峠」を執筆した中里介山はこの寺に滞在してこの大長編小説を書いたそうです。
境内の真ん中にエドヒガンの巨樹があり、春は美しい花をつけるそうです。甲州のお寺はどこも境内に美しい花を咲かせる立派な樹があるようで、霊場めぐりの季節を間違えたなぁという感じ。でも、きっと春までかかるから……。
そして、ここでまたしても観光バスのご一行様に遭遇。やっぱり今年は大河ドラマの季節なんですね。
芝大神宮「だらだら祭り」
16日は、芝大神宮の例大祭にも行ってきました。お祭りのはしご(^_^;) とはいっても赤坂氷川神社と芝大神宮は地下鉄で駅は3つ。歩けと言われれば、歩けない距離でもないのです。
1005年創設の芝大神宮は、都内に現存する中で最も古い神社といわれ、2005年に鎮座1000年記念祭を行っています。例大祭は、「だらだら祭り」とも称されていますが、古くから全国からの参拝者を集めるため、長期間お祭を開催せざるを得なかったとか。気の短い江戸っ子が、そんなに長くやってるなんて「だらだら祭りだ!」と命名したとか、しないとか。お祭りの期間は11日間ですが、別にだら気を抜いてだらやっているわけではなく、毎日、いろいろな行事が開催されています。
また、別名「生姜祭り」とも呼ばれ、期間中は神前に甘酒と生姜が供えられます。昔はこの辺りに生姜畑があり、近隣の農家が祭で生姜を売ったことから名物となったということですが、いまやこの辺りで畑なんか探すだけ無駄ですね。境内には生姜を商う店も出ていますが、先日、永福稲荷神社で山積みの生姜をみたばかりなので、ここのは「どこにあるの?」「あっ、これ?」というぐらい。いまでは申し訳程度に売られているという感じです。
隔年で行われる町内神輿連合渡御は、こちらも今年が開催年。16基のお神輿が神社に入る片側2車線道路を貸切にして宮入りします。かつては第1京浜も貸切、通行止めとなったと交番のおまわりさんが言っていましたが、今年は信号を守って横断。貸切になったのは1車線分だけだったようです。
宮元の次に続く「芝大門一 北親会」という神輿は、「親子三代、町内の方だけで担ぐ神輿です」とマイクで説明されていました。ということは、他の神輿は外様がいっぱい担いでるってことですね。いまは、どこもそういうことになっているらしいですが。事前に申し込めば、誰でも?担がせてくれるようです。ああ、私も担いでみたいなぁ(^_^;) DNAの中にほんの毛筋ほど残っている江戸っ子の血が騒ぐ?(笑)
神社は大きな階段の上にあって、宮入りする神輿を下で宮司さんたちが出迎えます。ちょろちょろと階段を登ってみたのですが、上のほうから見ると、参道を何基も連なって入ってくる神輿にすごく迫力がありました。
「縁日ガイド」でも写真を紹介しています。
赤坂氷川神社「神幸祭」
赤坂氷川神社のお祭りでは、本祭と陰祭が1年おき。今年は本祭りで、今日は神輿連合渡御が行われました。15基の神輿のほか、山車や太鼓が氏子町内を賑やかに練り歩きます。
御祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫命、大己貴命で、創建は951(天歴5)年とか。ものすごく歴史があるんですね。1066(治歴2)年に大旱魃が発生し、この神社に雨乞いをしたら霊験あらたか、すぐ雨が降ったというわけで、人々は何かにつけてこの神社のお祭りをしたとか。江戸時代には8代将軍吉宗の信仰が厚く、以来、14代家茂まで歴代の将軍に大切にされてきた神社だそうです。
「氷川神社」とマピオンなんかで検索してみると、だぁ〜っとリストアップされますよね。全国で「氷川」と名のつく神社は261社あるそうです。東京都だけで68社もあり、いわゆる江戸ご府内だけで7つの有名な氷川神社があります。本社は埼玉県の大宮に鎮座する武蔵国一ノ宮の氷川神社で、すべての氷川神社はここから分かれてできたものです。
氏子さんは赤坂、六本木の町内ですが、赤坂、六本木なんていうと、ニューヨーク、パリというのと同じような感じで、「土地の氏子さんなんか、いるんですかぁ〜?」という感じでしたが、みなさん、町内ごとにおそろいの法被、鉢巻姿で勇壮。普段は取り澄ました街も、このときばかりは先祖返りしているような(笑)
掛け声は「わっしょい」ではないみたいで。それぞれ町内ごとに好きなこと言ってる(笑)って感じでした。「そいや、そいや」もあり、たんに「おいっ、おいっ」というのも。江戸前のお神輿には掛け声に決まりごとはないんですかね?
私は神社から出てくる神輿を柱の陰から定点観測状態で見ていましたが、赤坂っていうくらいで、ゆるやかですが、そこらへん坂道ばかり。山車などは、引くというより、転がり落ちそうになるのを必死で抑えてるって感じで、こっちのほうがパワーが必要かも。しかも逆方向は登りですもんね、こちらは引くのが大変かも。
提灯に欧文!(笑)
背の高い山車の横には、電線を持ち上げる係りの人がついて歩いていて、こんなところはかえって都会のお祭の風情?(笑) カメラを構えていたら、法被のおじさんに「いまだ!」と声をかけられ、思わずシャッターを押してしまいましたがな。振り向いて顔を見合わせ、ふたりで大笑い。最近はデジカメなもんで、後ろからでも狙ってる画面が見えたりするんですよね。赤坂にはおちゃめなおじさんもいます(^_^;)
スピード出過ぎちゃって
「縁日ガイド」でも写真をご紹介しています。
慈雲寺(甲斐霊場第10番)
甲州市の天然記念物に指定されているイトザクラの巨樹があり、きっと春には美しい花を楽しませてくれるのでしょう。このイトザクラは、ウバヒガンの変種というもので、樹齢は300年ぐらい、枝が四方に垂れ、糸が垂れているような形に見えることからイトザクラの名があるようです。淡紅色の可憐な花を咲かせるとのこと、春になったらもう一度、この桜を見に来てみたいものです。いまの季節はお庭も一面の緑という感じで花は少ないですが、よく手入れされていながら、あまり人工的な感じがせず、くつろげるお庭です。
ここには樋口一葉の文学碑が建っています。幸田露伴が碑文を書き、賛助者として坪内逍遙、与謝野寛、与謝野晶子、森鴎外、田山花袋、佐藤春夫などそうそうたるメンバーが名を連ねています。しかし、なぜ、ここに樋口一葉?
一葉は1872(明治5)年3月25日東京生まれ、1896(明治29)年11月23日没。24歳という短い生涯だったんですね。この24年間に何か慈雲寺との関係が生まれていたのかと思ったら、関係があるのは一葉のご両親だったのです。
江戸末期に当時の住職が寺小屋を始め、のちに樋口一葉の両親がここで知り合い、ここで学んだのだそうです。ここは樋口家の菩提寺でもあったようです。この文学碑は、1916(大正5)年に一葉の妹、邦子が先祖の墓参に訪れたときに、世話をしてくれた人と「一葉の碑をこの地に建立し、後世まで遺したい」という相談がまとまり、大正11年10月に建てられたと説明されていました。
2004年から樋口一葉が5000円札の肖像になったことを記念して、お寺の入り口には新しい一葉の石像も立てられています。観光資源にしたいというお考えがあるのでしょうが、桜の季節以外はあまり人も訪れないような、静かな風情のままいてほしいような。初めて来たくせに勝手なことを言うなって感じですけど(^_^;)