浜降祭
台風の次は地震! 中越の方は、前の地震から完全に復旧する前にまた……という感じで、本当に大変ですね。心からお見舞い申し上げます。私は、上中越、北信にけっこう知り合いが多くて心配しましたが、幸い、知人友人はみんな無事でした。
そんな大変なことになるとはいざ知らず、早朝から茅ヶ崎の「浜降祭」を見物に行ってました。午前3時過ぎに出て、帰ってきたのが9時前。地震のときは爆睡していて、関東もやや揺れたようですが、まったく気づきませんでした(-_-;)
「浜降祭」は、茅ヶ崎の主だった神社がすべて神輿を出し、総勢32基(とアナウンスされたような気がしますが)で、町中を練り歩き、最後は西浜で海の中に担ぎ込むという壮大なお祭です。
一番初めにスタートする神輿は午前2時だそうです。そして次々にいろいろな神社の神輿が合流して5時から6時ごろに浜に集合します。ずらっと並んだ神輿は壮観。1基ずつ浜を練って海に入るということになりますが、今日は、台風一過、大波がドカーンという感じで浜に打ちつけていたので、海に入るのは禁止になっていました。
海に入るのは「禊」と呼ばれる行事で、これによって神輿が清められるのだそうです。「どっこい、どっこい」という勇ましい掛け声は相州神輿独特のもの。この祭りは1978(昭和53(年に神奈川県の無形民俗文化財に指定され、85年には「かながわのまつり50選」に選ばれています。
神輿は砂浜を練り歩くのですが、中でも厳島神社の神輿は波打ち際スレスレまで突入。私も含めて見物人もカメラを構えて追いかけて行ってわけですが、そのとき、ザブーンと特大の波が……。「うわぁ〜」、なんて逃げてももう遅い! みんな膝下までしっかり波に洗われました。「どんだけ〜!」って感じです、冷たいし(-_-;)
儀式が終わると、神輿は再び神社にもどっていきます。かつては神社の氏子のいる集落を廻ってから神社に帰ったそうですが、いまは交通事情が許さないのでしょうね。地元では人気のあるお祭のようで、早朝から徒歩で、自転車で大勢の人が浜に向かっていきました。露店もたくさん出ていて、お祭で使ったエネルギーをたこ焼きやお好み焼きで補充? どの店も行列ができていました。
私たちも広島焼きをゲット。海の見えるテラスで食べたのですが、目前に大きな波が打ち寄せ、ときどき波しぶきが飛んできました。この広島焼き、塩味?(笑)
「縁日ガイド」にも祭りの概要と写真をアップしました。そっちも見てね。
大雨と台風
東海、関東はこれからが本番でしょうか。少し進路が東に寄ったようで、関東直撃ということはなくなりそうですが、もうすでに東京でも土砂降りです。我が家のすぐ裏に川があるのですが、みるみる増水して、もはや河原が消えました!
その昔、この川はよく氾濫してくれて、我が家も何度か床上浸水をこうむったことがあります。床下浸水は数え切れないほど。東京都の防災毛布もらって、高台に逃げたなぁ。梅雨時の浸水は、台風が過ぎ去ったあともカラッと晴れないので、床が乾かなくて、なかなか平常の生活に戻れないんですよね。畳を机の上に上げたまま数日とか……。子どもの頃、積み上げた畳の一畳に妹とふたりで寝て、畳の上から落下し、したたか頭を打って眼を覚ました記憶があります。それからバカになりました(-_-;)
床上浸水なんて、体験した人しかわからないと思うけど、水が引いたあともドブ臭かったりで(いまは下水道がちゃんとしてるし、川の水質汚染も軽減しているから、そうでもないのかもしれないけど)、掃除して、住めるようになるまで大変なんですよ。
家屋が流されたり、壊れたりした方々に比べれば、床上浸水なんて、まだましなほうかもしれませんが、やっぱり川を眺めつつ、溢れてくれるなよ! と願います。護岸工事が完了してから、もうずいぶん経ち、その後は氾濫したことはないのですが、これはもうトラウマです。川から目が離せません(^_^;)
雨が降らなければ降らないで、これも困ったものなのですがね。モノには限度ってものがあるだろう! と雲に向かって嘆いても、言うことを聞いてくれるわけでもありませんしねぇ。いずれにしても、もうこれ以上、被害を出さずに、とっとと太平洋の彼方に消え去ってもらいたいものです。
武田神社
甲斐善光寺のすぐそばに武田神社があります。武田信玄を祀った神社で、もともとは住居だった躑躅ヶ崎館の跡地に建てられたものです。この館には信虎、信玄、勝頼の三代が60年余りにわたって居住していました。1938(昭和13)年にはすでに国の史跡として指定されています。
今年はNHKの大河ドラマの舞台になっているので、多くの人々が訪れているようです。私たちも、ここまで来たからにはミーハーをやらなくちゃね、というわけで、霊場とは関係ありませんが、武田神社にも立ち寄ってみました。この辺は、地名も武田っていうんですね。
信玄の命日にあたる4月12日には武田二十四将を模した騎馬行列などが行われる信玄公祭が行われているようです。今年はきっとすごい人出だったんでしょうね。テレビの影響、恐るべし!という感じなので。
庭にある「武田水琴窟」は、地下のわずかな水の流れを竹筒に耳を当てて聞くというもので、本当に涼やかなきれいな音色が聞こえてきます。ときどきコトンと音をたてる獅子脅しもあり、音の文化の極みという感じです。風流だなぁ、武田さん。
武田勝頼が茶会を催したときに使ったという「姫の井戸」という湧き水も、いまも清涼な水を湧き出させています。別名「茶之湯の井戸」とも呼ばれるそうで、いわゆる「名水」なのかもしれません。コンビニでペットボトルの水を買うより、おいしいかも。
庭にはこんなものも自由気ままに歩き回っています。なんだかのどかです。
武田信玄は戦国でもっとも強い武将だったといわれ、甲斐の国の守護神ですから、死後は神様にもなるだろうという感じ。徳川家康も神様になりましたもんね。この神社にお参りすると得られるご利益はずばり「勝運」。また、境内にある「三葉の松」は珍しいもので、黄金色になって落葉することから、身につけると「金運」のご利益があるといわれます。「勝運」と「金運」、どちらもぜひ、いただきたいものであります。
永昌院(甲斐霊場第4番)
第1回目の霊場めぐりの最後は永昌院です。ここもナビさまご存知なかった(^_^;) 住所を手がかりに進んだわけですが、よくわからなくて立ち往生していたら、近くに「長源寺こっち」という矢印を発見。お寺さんなら、永昌院もご存知だろうと、道を尋ねるためにそちらに向かいました。が、ここもタイヤ落ちない?という細い農道の奥のほうで……冷や汗もの。
到着した「長源寺」は広々として、「民話の奇岩」という伝説の岩もあり、立派なお寺です。「すいませ〜ん」と声をかけて、わざわざ出てきていただいのは、お坊さんらしい感じですが、若い方でした。丁寧に道を教えてくださったので(が、けっこう辿りつけるかどうか不安という複雑さ)、クルマに戻ってUターンしようとしていたら、出てきて、近道があるから案内してくださるとのこと。クルマで先導していただきました。本当にご親切で、ありがたかったです。宗教家はこうあるべし、って感じの好青年でありました(^_^;)
さて、永昌院。本当に山奥です〜。この山地一帯を地元では永昌院山と呼ぶそうですが、山門のところからは御坂山系の山並みから甲府盆地東部一帯が見渡せます。
ここには、そこに登って行く道はあじさいがきれいです。江戸中期までは修行所で、いつも80人ぐらいの修行僧が住んでいたといいますが、1909(明治42)年の火災でほとんどの建物を焼失してしまったそうで、いまは修行僧の姿はありません。
景色は素晴らしいですが、また階段
本堂の左から裏山へ登ると信玄の四代前にあたる武田信昌のお墓があります。この信昌の墓所に登っていくの小道は「あじさい道」といって、知る人ぞ知るあじさいの名所でもあります。ちょうどがくあじさいが花盛りでした。
お寺の奥さんが、「風林火山でNHKが取材にきたんですよ」とおっしゃっていたので、テレビでこのお寺を見られるかもしれませんね。
こんなものも見つけました
大蔵経寺(甲斐霊場第3番)
光福寺から大蔵経寺までは2〜3キロ。その前に、国道に出たとたんに発見したドラッグストアでかゆみ止めを買い、蚊に刺されたところに塗りまくりました〜。いわゆる薮蚊というのでございましょうか、思いっきり真っ赤に晴れ上がり、かゆい、かゆい。これって、修行が足りないってことですか(笑)
このお寺は徳川家とのゆかりが深く、天正の頃には家康の祈願所となっていたそうです。山門の扉とその脇にある大きな灯籠には徳川の紋がはいっており、所蔵品にも徳川家にかかわるものも多いそうです。ですが、中途半端な季節の平日で、あっちこっち鍵がかかっていました。
背後には緑の山がそそり立ち、塀で囲われたお寺自体は大きいものではありませんが広々とした雰囲気です。静まりかえっているので、誰もいないのかなと心配しながら御朱印をもらおうとピンポンしてみました。よかった。お寺の方がいらっしゃいました。
御朱印を書く間に、よろしかったら庭を……とご案内いただいて、上がりこんで中庭を拝見すると、これが見事に手入れされた美しい庭でした。池と白砂と岩が調和して、京都の寺院のような。ピンポンしなければ、これを見損なうところでした。これは一見の価値がありますよ。
石和温泉郷七福神の寿老人も